大竹しのぶの略奪愛と魔性の恋愛遍歴|服部晴治からさんままで

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大竹しのぶの略奪愛と魔性の恋愛遍歴|服部晴治からさんままで

大竹しのぶさんは、昭和から平成・令和にかけて第一線で活躍し続ける名女優として知られています。

卓越した演技力と存在感で数多くの名作に出演してきた一方、私生活においても波乱に満ちた恋愛遍歴で常に注目を集めてきました。

特に「略奪愛」「魔性の女」と呼ばれた恋愛スタイルは、芸能界でも異色の存在感を放っています。

最初の夫・服部晴治さんとの結婚は、当時別の女性との婚約が噂されていた状況での略奪婚として大きな話題になりました。

この記事では、大竹しのぶさんの略奪と呼ばれた恋の始まりから、その後の恋愛遍歴の全貌を詳しく掘り下げます。

記事のポイント

①:服部晴治との略奪婚と結婚の経緯

②:さんまとの再婚と離婚の真相

③:野田秀樹との不倫と同棲の5年間

④:大竹しのぶが魔性の女と呼ばれる理由

大竹しのぶの略奪愛と服部晴治との結婚

  • 略奪愛を生んだドラマ現場での出会い
  • 中村晃子からの略奪と周囲の猛反対
  • 服部晴治のプロフィール|TBS名プロデューサーの全貌
  • 結婚後の生活と胃がん発覚|看病の日々
  • 服部晴治の死と大竹しのぶへの遺言

略奪愛を生んだドラマ現場での出会い

大竹しのぶさんの略奪愛の始まりは、1980年に遡ります。

当時23歳だった大竹さんは、TBSドラマ「恋人たち」(1980年10月〜12月)に出演していました。

そのドラマでディレクターとして演出を担当していたのが、当時約40歳のTBSプロデューサー・服部晴治さんです。

下記の表は大竹しのぶさんの基本プロフィールをまとめたものです。

項目 内容
本名 大竹しのぶ
生年月日 1957年7月17日
2026年03月22日現在の年齢 68歳
出身地 東京都
職業 女優・タレント
デビュー 1975年(映画『青春の門』)
テレビデビュー 1975年(連続テレビ小説『水色の時』ヒロイン)

ドラマ現場での急接近と運命の出会い

ドラマ「恋人たち」の撮影現場で、大竹さんと服部さんは自然と距離を縮めていきました。

服部さんは仕事に対して真剣かつ情熱的で、「業界きってのモテ男」とも評されるほどの魅力的な人物だったといいます。

当時の大竹さんは25歳と、女優としてもっとも輝かしい時期に差し掛かっていました。

映画『青春の門』(1975年)でのデビューから連続テレビ小説『水色の時』ヒロインを経て、演技力と存在感は右肩上がりに評価されていた頃です。

そんなキャリアの充実期に、仕事を通じて出会った服部さんへ強く惹かれていったわけですね。

年齢差は実に17歳。大竹さんが23歳の時点で服部さんはすでに40歳という組み合わせでした。

ここ、気になりますよね。なぜこれほどの年の差があるにもかかわらず大きな恋に発展したのかというと、服部さんの仕事ぶりと人柄が決め手だったといわれています。

17歳差の年の差恋愛と世間の注目

「恋人たち」の撮影が進むにつれ、二人の距離は急速に縮まっていきます。

大竹さんは当時のことを「なるようになる」という感覚で受け入れていたようで、迷いよりも確信めいたものを感じていたとも語っています。

ただ、現実には大きな障壁がありました。

服部さんには当時、歌手・中村晃子さんとのほぼ婚約状態ともいえる交際関係があったのです。

そのため二人の関係が表に出た時点で、世間はすぐに「略奪愛」と騒ぎ始めることになります。

ドラマの現場で育まれた感情が、芸能界を巻き込む大騒動へと発展していくわけです。

それでも大竹さんは、この恋愛を選んだことへの後悔を口にしたことは一度もありませんでした。

大竹さんの「なるようになる」という姿勢こそが、のちに「魔性の女」と評される個性の原点ではないかと思います。

中村晃子からの略奪と周囲の猛反対

服部晴治さんと大竹しのぶさんの恋愛は、「略奪婚」「泥棒猫」「魔性の女」というレッテルを貼られながらも前に進んでいきます。

服部さんは当時、歌手・中村晃子さんとの同棲・婚約直前ともいわれる関係にありましたが、ドラマ「恋人たち」の現場で大竹さんと急接近し、中村さんとの関係が崩壊したとされています。

「略奪婚」と呼ばれた背景

服部さんと中村晃子さんとの関係は、当時かなり深刻なものでした。

同棲・婚約目前の状態にある人との恋愛ですから、「略奪愛」という表現が使われるのも当然ではあります。

芸能界や週刊誌はこぞってこの「略奪」を報じ、大竹さんに向けられた批判は相当なものだったといいます。

また、年齢の問題もありました。

相手は42歳(実際には3度目の結婚となるため結婚歴ありの年上男性)であり、「女優として一番いい時期に結婚するべきではない」という声も多かったようです。

さらに「相手はバツ2(過去に2度の結婚歴がある)という事実」も反対意見に拍車をかけました。

大竹さんが25歳の若さでこれだけの状況に飛び込んでいったわけですから、周囲が反対するのも無理はないかなと思います。

大竹しのぶの覚悟と「まあ、いいか」の精神

しかし大竹さん自身は、後にTOKYO FMのラジオ番組「TOKYO SPEAKEASY」でこの時のことをこう振り返っています。

「相手も結婚歴もある凄い年上の人だったから、凄い反対されて。でもあんまり迷うことなく、そうなったらそうなったでいいや、って感じで自分の思うがままにやってきた」

迷いなく選んだという言葉の力強さは、大竹さんの本質的な芯の強さを物語っています。

そんな大竹さんと服部さんには、有名なエピソードがあります。

「座右の銘は何?」という問いに対し、二人が同時に紙に書いたのが「まあ、いいか」だったというものです。

どんな逆境も「まあ、いいか」と受け流すこのスタンスが、ふたりを結びつける精神的な軸だったのかもしれません。

そしてすべての反対を押し切り、大竹さんと服部さんは1982年についに結婚することになります。

略奪と呼ばれ、世間に批判され、それでも選んだ道。大竹しのぶさんの恋愛哲学の原点とも言える出来事です。

服部晴治のプロフィール|TBS名プロデューサーの全貌

大竹しのぶさんの最初の夫・服部晴治さんは、TBSのディレクター・プロデューサーとして昭和を代表する人気番組を手掛けた実力者でした。

当時のテレビ業界では非常に著名な人物であり、「業界きってのモテ男」と評されるほど魅力にあふれた人物像が伝わっています。

以下の表で服部晴治さんの基本情報を整理してみます。

項目 内容
名前 服部晴治(はっとり せいじ)
生年 1940年
職業 TBSテレビ・ディレクター/プロデューサー
死去 1987年7月(享年47歳)
結婚歴 3度の結婚(大竹しのぶは3番目の妻)
子供 計4人(大竹との長男・二千翔含む)

TBSでの実績と代表作品

服部さんはTBS入社後、昭和を代表するホームドラマを数多く手掛けました。

代表作として知られるのは「恋人たち」「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」などで、昭和の茶の間を席巻した人気作ばかりです。

また1983年に放送された「もういちど結婚」では、プロデューサーと演出を兼任し制作陣を統括する手腕も発揮しています。

仕事への姿勢は真剣かつ情熱的であったとされており、共演者や関係者からの信頼は非常に厚かったといいます。

当時のドラマ業界において服部さんは「一流の作り手」として広く認知されており、美人女優との交際も多いことから「業界一のモテ男」という評判が立っていました。

大竹しのぶへの優しさと明石家さんまとの信頼関係

服部さんの人柄を示す有名なエピソードとして、大竹さんへの細やかな気遣いが挙げられます。

結婚生活の中で、服部さんは大竹さんに「手荒れを気にしなくていい」と家事から守るような優しい一言をかけたといいます。

女優という職業柄、手の美しさは大切です。それを気にかけてあげるというのは、細やかな思いやりを持った人物像を示していますよね。

また服部さんは、明石家さんまさんとも深い信頼関係を築いていました。

服部さんは亡くなる直前にさんまさんへ「しのぶを頼む」という内容の手紙を託しており、それほどの信頼を置いていたことがわかります。

仕事でも私生活でも誠実であり続けた服部さんの人柄こそが、大竹さんを強く惹きつけた理由だったのかもしれません。

3度の結婚を経験し、最終的に大竹さんのもとにたどり着いた服部さん。短い生涯でしたが、その人生は非常に濃いものでした。

結婚後の生活と胃がん発覚|看病の日々

1982年、さまざまな反対を乗り越えて大竹しのぶさんと服部晴治さんは結婚しました。

結婚後1年ほどで服部さんに胃がんが発覚し、本人には告知されないまま「余命1年」と宣告されたことが、二人の生活を大きく変えることになります。

がんの告知を知らない服部さんの横で、大竹さんは看病しながら女優としての仕事もこなすという過酷な日々を送ることになりました。

余命宣告という現実と大竹しのぶの決断

本人には知らされていないという状況の中で、大竹さんはどれほどの覚悟を持って日々を過ごしていたか、想像するだけで胸が痛くなります。

夫には「余命1年」という現実があり、それを知らないまま普通に生活している服部さんの傍らにいる。そんな状況の中で大竹さんは一つの大きな決断をします。

がんを告知された服部さんの前で、「私、あなたの子供を産みたい」と伝え、妊娠したのです。

この言葉は単なる感情の表出ではなく、残された時間を共に生きるという覚悟の表れだったのではないでしょうか。

そして生まれてきた子が、後に大竹さんのマネージャーとして活躍することになる長男・二千翔(にちか)さんです。

息子・二千翔の誕生と家族としての時間

二千翔さんの誕生は、病床にある服部さんにとっても大きな喜びだったはずです。

ただ現実的には、服部さんの体は着実に病魔に蝕まれていきました。

大竹さんは女優として仕事を続けながら、夫の看病と幼い息子の育児を同時にこなすという状況が続きます。

当時、大竹さんは連続テレビ小説の仕事で大阪に滞在することもあり、東京に子供を残しての撮影が続く中で胸が苦しくなることもあったと語っています。

娘から電話がかかってきて、普通なら家でやりとりできる会話が電話でしかできないことに込み上げるものがあったとも述べています。

それでも「私はこの仕事を選んだのだから、しっかりやらなくては!」と気を取り直して日々を過ごしていたという大竹さんの言葉からは、強靭な精神力が伝わってきます。

看病・育児・仕事を同時にこなすその姿は、当時の大竹さんの生き様そのものでした。

服部晴治の死と大竹しのぶへの遺言

服部晴治さんは1987年7月、享年47歳という若さで亡くなりました

葬儀はTBS緑山スタジオで行われ、幼い二千翔ちゃんの手を引きながらカメラのフラッシュを浴びる大竹さんの姿が、多くの人の涙を誘いました

「しのぶを頼む」という遺言と明石家さんまへの手紙

服部さんが残したエピソードの中で最も印象的なのが、明石家さんまさんへの手紙です。

服部さんは生前、友人であり後に大竹さんの再婚相手となるさんまさんに「しのぶを頼む」という内容の手紙を託していたといわれています。

この一文からは、服部さんがさんまさんをどれほど信頼していたかが伝わってきます。

友人に妻のことを頼む。それは自分が残す者への最後の愛情の形だったのではないでしょうか。

結果として、このつながりが大竹さんとさんまさんの再婚へとつながっていくわけです。服部さんの遺言は、ある意味で大竹さんの人生の次の扉を開く鍵になったとも言えます。

息子・二千翔さんの現在

服部さんとの間に生まれた長男・二千翔(にちか)さんは、現在、大竹しのぶさんのマネージャーを務めています。

父親が亡くなった際にはまだ幼かった二千翔さんが、成長して母を支える立場になったというのは、何か感慨深いものがあります。

葬儀の場で母の手を握っていた幼い子が、今は母の仕事を支えている。

服部さんがもし今の二千翔さんを見たら、どんな言葉をかけるでしょうか。

短い結婚生活だったものの、大竹さんにとって服部晴治さんとの時間は非常に大きな意味を持ちます。

略奪愛として始まった恋が、病床での看病、子供の誕生、そして突然の別れという濃密な時間に凝縮されていきました。

その経験が後の大竹さんの演技の幅を広げていったことは想像に難くありません。

大竹しのぶの略奪と再婚後の波乱の恋愛遍歴

  • さんまとの不倫疑惑|前夫死去前からの接近
  • 明石家さんまとの再婚とIMALUの誕生
  • ヘアヌード写真集と離婚の真相
  • 野田秀樹との不倫と5年間の同棲生活
  • 別れた男とこじれない大竹しのぶの魔性
  • 大竹しのぶの略奪愛が生んだキャリアと人生哲学

さんまとの不倫疑惑|前夫死去前からの接近

服部晴治さんの死から遡ること——実は、大竹さんとさんまさんの関係は、服部さんが亡くなる前から始まっていたと報じられていました

TBS系で放送された「男女7人夏物語」(1986年)で二人は共演し、当時すでに「不倫」として週刊誌に取り上げられていたのです。

「男女7人夏物語」がきっかけだった

「男女7人夏物語」は1986年の夏に放送され、大竹さんとさんまさんのダブル主演で高視聴率を記録した話題作です。

現場での自然な関係が恋愛に発展していったとされており、そのタイミングが服部さんの闘病期間中と重なっていたため、報道は「不倫」という形をとりました。

服部さんはすでに余命宣告を受けていた状況でしたが、本人には告知されていない。

そんな複雑な状況の中で大竹さんがさんまさんと接近していったことは、世間から「魔性の女」という評価をさらに強める材料になりました。

ただ、事情を知る者の間では「複雑な状況の中で誰かに支えを求めることは理解できる」という見方もあります。

服部さんが「しのぶを頼む」とさんまさんに手紙を託していた事実を考えると、三者の関係は単純な不倫とは一概に言い切れない複雑さがあります。

略奪婚と不倫疑惑が重なる異色の恋愛遍歴

大竹さんの恋愛においては、「略奪」という言葉がたびたび登場します。

最初の結婚では中村晃子さんとの関係にあった服部さんを略奪したとされ、今度は前夫の生前からさんまさんと関係を深めていたと報じられる。

週刊誌や芸能評論家は大竹さんを「元祖・略奪愛の女王」「魔性の女」と評しましたが、本人は常に「迷いなく選んできた」という一貫したスタンスを崩しませんでした。

服部さんの死の翌年、1988年にさんまさんとの再婚を発表するわけですが、その結末を見れば、服部さんの遺言どおりにことが運んだとも言えます。

「魔性」という言葉は批判のように聞こえますが、ある意味では大竹さんが人の心を動かすほどの磁力を持っている証明でもあるかもしれません。

明石家さんまとの再婚とIMALUの誕生

1988年、大竹しのぶさんは明石家さんまさんと再婚しました。

前夫・服部晴治さんが亡くなった翌年のスピード再婚は芸能界を驚かせましたが、服部さんが生前にさんまさんへ「しのぶを頼む」と手紙を託していたという経緯を知る人たちには、ある意味自然な流れとも映りました。

結婚後まもなく、長女・IMALU(イマル)さんが誕生し、夫婦は新しい家族の形を築いていきます

さんまと大竹しのぶ——対照的な二人の組み合わせ

明石家さんまさんといえば、言わずと知れた日本を代表するお笑い芸人です。

一方の大竹さんは演技派の女優として第一線に立ち続けている存在。この二人の組み合わせは、当時の芸能ファンにとってはかなりの驚きだったことは想像できます。

さんまさんはその後、結婚生活のエピソードをたびたびトークのネタにしており、大竹さんとの生活は笑いの中に色濃く残っています。

「不倫」と報じられた状態から始まり、喪中の翌年に再婚という異例の流れでしたが、二人がそれぞれ仕事でも存在感を示していったことは確かです。

IMALUさんの誕生とその後

二人の間に生まれた長女・IMALUさんは、父・さんまさんと母・大竹さんの個性を受け継いだタレントとして現在も活躍しています。

さんまさんが名付け親で「IMALU」という名前の由来は諸説ありますが、ユニークなセンスが際立つ名前ですよね。

大竹さんはNHKの連続テレビ小説「オードリー」(2000年)の出演に際して、当時幼い娘を東京に残して大阪での撮影に臨んでいたことを語っています。

「娘から電話がかかってきて、普通なら家でやりとりできる会話を電話でしかできないことに胸が苦しくなった」という言葉からは、女優として母として生きることの葛藤が感じ取れます。

しかし「この仕事を選んだのだから、しっかりやらなくては」という気持ちで乗り越えていった大竹さん。その強さは、どんな逆境にも揺るがない本物のものです。

ヘアヌード写真集と離婚の真相

大竹さんとさんまさんは1992年に離婚しています。

その引き金のひとつとして語られるのが、1993年に発売されたヘアヌード写真集「闇の光」の存在です。

実はこの写真集、さんまさんと結婚していた時期(1988〜1992年)に撮影されており、「離婚の引き金になったのではないか」と出版関係者の間で言われたとされています。

写真集発売の背景と「樋口可南子への対抗心」伝説

1993年に発売された「闇の光」は、大竹しのぶさんのヘアヌード写真集です。

当時の芸能界では、女優の樋口可南子さんがヘアヌード写真集の”第1号”として話題を集めていました。

「樋口可南子に先を越されて大竹さんが悔しがっていた」という伝説は、出版関係者の間では有名な話として語られています。

負けん気の強さという点では人一倍だと評される大竹さんらしいエピソードかもしれません。

写真集の撮影は結婚期間中だったとされており、これがさんまさんとの関係に影響を与えたと見る向きもあります。

ただ実際のところ、離婚の真相はさんまさんも大竹さんも公式には詳しく語っておらず、写真集が直接の原因だったかどうかは定かではありません。

1992年の離婚と現在のさんまとの関係

1992年、さんまさんと大竹さんは離婚を発表します。

4年という結婚期間でしたが、離婚後の関係が注目を集めました。

なぜなら、さんまさんはバラエティ番組で結婚生活のエピソードを積極的にトークのネタにし、大竹さんも応じる形でコメントするなど、現在でも比較的良好な関係が続いているからです。

「離婚した元夫婦がテレビで互いの結婚生活をネタにして笑い合える」——これは普通の関係ではありません。

芸能評論家の肥留間正明さんは「別れた男とこじれないことが大竹しのぶの魔性の本質」と指摘しています。

離婚してもなお良好な関係を保つことができるというのは、大竹さんの人間的な魅力の一側面を示しているとも言えます。

野田秀樹との不倫と5年間の同棲生活

さんまさんとの離婚を機に、次に注目を集めた相手が舞台演出家・野田秀樹さんでした。

さんまさんとの離婚と同時期に、舞台「真夏の夜の夢」を演出した野田秀樹さんとの不倫が発覚したのです。

これに対し、さんまさんが「真夏の夜の悪夢だ!」と発言したのはあまりに有名なエピソードとして今でも語り継がれています

舞台「真夏の夜の夢」で始まった関係

野田秀樹さんは日本を代表する劇作家・演出家で、現代演劇界における重要人物のひとりです。

大竹さんが出演した舞台「真夏の夜の夢」の演出を担当した野田さんとの関係は、稽古場や舞台本番を通じて深まっていったとされています。

俳優と演出家という関係から恋愛へと発展するパターンは演劇の世界では珍しくありませんが、タイミングがさんまさんとの結婚期間中だったことで不倫として報じられました。

週刊文春には「元祖・略奪愛大竹しのぶ”第3の夫”野田秀樹も4年でポイ捨て」という刺激的なタイトルの記事が掲載されるほど話題になりました。

5年間の内縁関係の実態と別れ

不倫発覚後、大竹さんと野田さんは入籍こそしないものの1990年代に約5年間にわたる内縁関係に近い同棲生活を送ります。

なぜ入籍しなかったのかについては明確な理由は公表されていませんが、野田さんの仕事スタイルや二人それぞれのライフスタイルが影響していたと見られています。

入籍せずとも長期間の同棲を継続できたということは、それだけ互いの信頼関係があったということでもあります。

最終的には別れることになりましたが、大竹さんはその後も「野田さんには感謝している」と自著やテレビで繰り返し語っています。

別れた相手を公の場で「感謝している」と言い続けられる——これもまた、大竹さん独特の関係性の築き方の表れです。

批判的に見れば「略奪愛を繰り返した」ということになりますが、大竹さん自身は常に真剣に恋愛と向き合ってきたという一貫した姿勢が伝わってきます。

別れた男とこじれない大竹しのぶの魔性

大竹しのぶさんの恋愛において、もっとも際立つ特徴のひとつが「別れた相手と関係がこじれない」という不思議な事実です。

さんまさんとは離婚後もテレビで互いをネタにして笑い合い、野田さんには「感謝している」と語り続ける。「別れた後も良好な関係を保てる」という点が大竹さんの魔性の本質だと芸能評論家の肥留間正明さんは指摘しているのです。

さんまとの「元夫婦」関係の不思議

通常、離婚した夫婦が互いの結婚生活をテレビでネタにしながら笑い合うという関係は、かなりレアなケースです。

さんまさんはバラエティ番組などで「元嫁・大竹しのぶ」をネタにしたトークをたびたび披露しており、大竹さん側もそれに対して柔軟に応じてきました。

お互いが傷つけ合うのではなく、むしろ互いの個性を認め合ったまま関係が維持されている——これは普通の感覚では少し理解しにくいことかもしれません。

ただ、大竹さんの「なるようになる」「まあ、いいか」という人生哲学を踏まえると、別れもまた自然の流れとして受け入れ、憎しみに変えないという姿勢がこの関係を支えているように見えます。

「魔性の女」という評価の正体

「魔性の女」とは、一般的には男性を惹きつけて離さない魅力を持つ女性を指す言葉として使われます。

大竹さんの場合、単に男性を惹きつけるだけでなく、別れた後も「感謝している」と思わせるほどの人間的な魅力を持っているという点が特異です。

関係した人々が皆、大竹さんとの時間を否定せず、むしろ肯定的に振り返っているというのは驚くべきことです。

芸能評論家の視点からは「魔性の女」と表現されますが、それはある意味で「人を幸せにする力がある」という評価の裏返しでもあるのかもしれません。

略奪愛から始まり、不倫疑惑を経て、複数の関係を歩んできた大竹さんの恋愛史は確かに波乱万丈ですが、その根底には「自分の感情に正直に生きる」という一貫した哲学があります。

それが時に世間に「魔性」と映り、時に「強さ」として評価される——大竹しのぶという人物の奥深さを感じさせます。

大竹しのぶの略奪愛が生んだキャリアと人生哲学

大竹しのぶさんは1975年、映画「青春の門」で本格デビューし、同年に連続テレビ小説「水色の時」でヒロインを演じてテレビドラマにも進出しました。

半世紀以上にわたってトップ女優の地位を維持し続けているその演技力と存在感は、波乱に満ちた私生活の経験とも無縁ではないと多くの関係者が語っています。

「事件」「鉄道員(ぽっぽや)」「後妻業の女」などの映画作品、大河ドラマ「元禄繚乱」「江〜姫たちの戦国〜」「いだてん」など幅広い作品でその実力を発揮してきました。

恋愛体験が演技の深みを生む

服部晴治さんとの出会い・結婚・看病・死別、さんまさんとの再婚・離婚、野田秀樹さんとの内縁関係——これだけの人生体験を持つ女優は、そうそういるものではありません。

喜怒哀楽を超えた深い感情体験が、大竹さんの演技に独特の厚みと説得力を与えていると見ることができます。

NHK連続テレビ小説「オードリー」(2000年)でヒロインの養母・吉岡滝乃を演じた際も、「幼い子どもを略奪に近い形で養女に迎えようとした」という激しい役どころを自然に演じ切ったのは、自らの人生体験があったからこそともいえます。

舞台「ピアフ」「出口なし」では高い評価を受け、映画・ドラマ・舞台のすべてで一流の仕事を続けてきました。

「なるようになる」哲学と50年の女優人生

大竹さんを語る上で欠かせないのが「なるようになる」「まあ、いいか」というキーワードです。

これは単なる諦めではなく、状況に抗わずに自然の流れに乗りながらも自分の意志を貫くという、独自の人生哲学といえます。

略奪婚という批判にも、不倫報道にも、離婚にも、大竹さんは常に前を向いてきました。

世間の評価を過剰に気にするのではなく、自分が今感じていることに正直に生きる。その姿が時に「魔性」と呼ばれ、時に「芸能界屈指の名女優」として讃えられています。

50年以上にわたるキャリアは、そのすべての経験の積み重ねによって形成されてきたものです。

恋愛においても仕事においても「迷わず選ぶ」という大竹しのぶさんのスタイルは、これからも変わることはないでしょう。

大竹しのぶの略奪愛と波乱の恋愛遍歴の総まとめ

  • 大竹しのぶさんは1957年7月17日生まれ、東京都出身の女優
  • 1980年、TBSドラマ「恋人たち」の現場で服部晴治ディレクターと出会う
  • 出会い当時、服部さんは歌手・中村晃子さんとほぼ婚約状態にあった
  • 大竹さんとの関係が深まり略奪婚として世間の注目を集める
  • 1982年、17歳差の年の差婚で服部晴治さんと結婚
  • 結婚後まもなく服部さんの胃がんが発覚し余命1年と宣告される
  • 大竹さんは告知された服部さんの前で「あなたの子供を産みたい」と伝え妊娠
  • 長男・二千翔(にちか)さんが誕生し現在は大竹さんのマネージャーを務める
  • 1987年7月、服部晴治さんが享年47歳で死去
  • 服部さんは生前、明石家さんまさんに「しのぶを頼む」と手紙を託していた
  • 1988年、明石家さんまさんと再婚し長女・IMALUが誕生
  • 1992年にさんまと離婚し、翌1993年にヘアヌード写真集「闇の光」を発売
  • さんまとの離婚と前後して舞台演出家の野田秀樹さんとの不倫が発覚
  • 野田さんとは約5年間の内縁関係に近い同棲生活を送るが入籍せず
  • 別れた後も関係がこじれず「感謝している」と述べる魔性の恋愛哲学が大竹さんの本質

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