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大貫妙子さんといえば、日本のシティポップを代表するシンガーソングライターとして知られていますよね。
1953年11月28日生まれ、東京都杉並区出身。シュガー・ベイブのメンバーとして山下達郎さんとともに活動したのち、1976年にソロデビューを果たし、「都会」「黒のクレール」「ピーターラビットとわたし」など数多くの名曲を世に送り出してきた存在です。
そんな大貫妙子さんのプライベートが気になる人も多いはず。「結婚しているのか」「坂本龍一さんとの関係はどうだったのか」という疑問を持つ方に向けて、この記事では大貫妙子さんの結婚歴・交際歴・家族について詳しくまとめています。
記事のポイント
①:大貫妙子さんは一度も結婚したことがなく現在も独身を貫いている
②:坂本龍一さんと20代前半に同棲していたことが本人の自伝で明かされている
③:破局後も音楽的パートナーとして協力関係を続け、坂本龍一の死去に際し追悼コメントを発表した
④:大貫妙子さんに子供・娘はおらず、音楽一筋の人生を歩んでいる
大貫妙子の結婚歴と坂本龍一との関係
- 坂本龍一との馴れ初め──コタツの日の出会い
- 同棲生活と「SUNSHOWER」制作秘話
- 破局の理由と「新しいシャツ」の真相
- 大貫妙子が結婚しなかった理由と独身を貫いた音楽人生
- 坂本龍一の死去と大貫妙子の追悼コメント
- 矢野顕子・山下達郎との関係
坂本龍一との馴れ初め──コタツの日の出会い
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大貫妙子さんの恋愛歴として最もよく知られているのが、音楽家・坂本龍一さんとの交際です。
2人が出会ったのは1970年代前半、シュガー・ベイブが活動していた頃のことでした。
当時の坂本龍一さんは、フォークシンガー・友部正人さんのバックでピアノを弾くなどプロとしての活動を始めたばかりの時期。
様々なミュージシャンと交流を深めるなかで、シュガー・ベイブともライブハウスや他のアーティストのレコーディング現場で顔を合わせるようになっていきました。
2人の距離が縮まった決定的なエピソードとして語られているのが、「コタツの出会い」です。
1976年頃、大貫妙子さんが当時の所属事務所に顔を出した際、同じビルにあった音響関係の会社にも立ち寄ることがありました。
その部屋でコタツに入っていた坂本龍一さんと大貫妙子さんも一緒にコタツに入って話し込んだことがきっかけで、急速に親しくなっていったといいます。
その後、2人は同棲を始めることになるのですが、大貫妙子さんはインタビューでその当時の様子をこう語っています。
「ある日、私の家に来て、そのままずっといた、っていう感じです(笑)。うちのLP棚を片っ端から聴いて、二人で盛り上がる毎日。当時の、ウェザー・リポート、ブレッカー・ブラザーズ、マリーナ・ショウ、トッド・ラングレン、ダニー・ハサウェイ……」
気がついたら一緒に暮らしていた、という自然な流れでの同棲スタートだったようです。
また、1975年12月に新宿厚生年金会館小ホールで行われたシュガー・ベイブのクリスマスコンサートでは、大貫妙子さんのソロコーナーで「からっぽの椅子」という曲のピアノ伴奏を坂本龍一さんが担当していたエピソードも残っています。
音楽プロデューサーの牧村憲一さんは、坂本龍一さんが他界された後の寄稿文に「その日の坂本のピアノは煌びやかだった。
それまでの芝居やフォーク・シンガーのサポートとはまるで違う、別の世界を楽しむかのようだった」と記しており、大貫妙子さんの音楽が坂本龍一さんの才能を引き出す場のひとつになっていたことが伝わります。
こうしてコタツから始まった2人の関係は、やがて音楽史に残る傑作を生み出す創作パートナーシップへと発展していくことになります。
大貫妙子さんのプロフィールについては後述しますが、シュガー・ベイブ解散後に孤独なソロ活動に踏み出した彼女にとって、坂本龍一さんとの出会いはキャリアを左右する決定的な転機でもありました。
同棲生活と「SUNSHOWER」制作秘話
同棲を始めた2人が共同で生み出した作品として特に有名なのが、1977年リリースの大貫妙子さん2枚目のアルバム「SUNSHOWER」です。
このアルバムでは坂本龍一さんが全曲の編曲とディレクションを担当しており、昨今のシティポップ再評価の流れのなかで「名盤」として国内外で高く評価されている作品になっています。
ただ、リリース当時は必ずしも商業的な成功を収めたわけではありませんでした。
大貫妙子さんによれば、レコード会社が売り出しにあまり力を入れてくれなかったうえ、当時所属していた事務所が解散するという苦境に立たされていた時期でもありました。
そうした状況のなかで、大貫妙子さんと坂本龍一さんは2人だけになり、「レコードが売れる売れない関係なく、好きなように作ってしまえ」という姿勢で制作した作品だったと振り返っています。
セールスよりも音楽的な自由を優先した2人の姿勢が、結果的に時代を超えて評価される名盤を生み出したわけです。
また、シュガー・ベイブ解散後にソロデビューした大貫妙子さんにとって、坂本龍一さんの存在は音楽面でも精神面でも大きな支えでした。
大貫妙子さんはインタビューでこう語っています。
「シュガー・ベイブを離れて一人になったら、全く自信なかったのね。もう、このままやめるんじゃないかと思ったし……。でも、まわりの勧めにより、続けていこうと」
「その時にいろいろな人とソロ・アルバムで仕事した中で、坂本龍一さんとの出会いが、ものすごく自分にとって大きかったわけですね。まだ彼はそんなに有名ではなかったけれど、とても才能のある人だと思ったし、もう芽生え始めていましたから」
山下達郎さんという大きな存在がいたシュガー・ベイブ時代から独立した大貫妙子さんにとって、坂本龍一さんは新たな音楽的パートナーとなったわけです。
「SUNSHOWER」が今なお評価される理由
「SUNSHOWER」は当時の日本のポップスシーンにおいて非常に先鋭的な作品でした。
ヨーロピアンテイストのサウンドと坂本龍一さんによる洗練された編曲が融合した本作は、のちに「シティポップの原点」として再評価されることになります。
現在では海外のDJやリスナーにも発見されており、YouTubeなどで数百万回再生される楽曲も複数存在します。
2人が「好き放題に作った」と語る自由な制作姿勢が、普遍的な音楽的価値を生み出したといえるでしょう。
また大貫妙子さんはこの頃、プロデューサー・牧村憲一さんのアドバイスで音楽性をアメリカンポップスからフレンチスタイルへと路線変更しています。
その際、単なるモノマネにならないよう坂本龍一さんの協力を仰いだそうで、坂本龍一さんも自らの音楽的知識と編曲で見事に応えてくれたといいます。
恋人として、そして音楽的パートナーとして、2人は互いの才能を高め合う関係を築いていたのです。
破局の理由と「新しいシャツ」の真相
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順調に見えた2人の同棲生活でしたが、1978年頃、坂本龍一さんが家を出ていく形で関係は終わりを迎えました。
破局の経緯について、大貫妙子さんはインタビューでこう語っています。
「(坂本龍一さんがYMOを結成して)初めてのソロアルバムだし、アルマーニのスーツを着たのがすごく嬉しかったみたいで。『どうよ』とか言って(笑)。彼は学生運動も長くやっていたし、アンダーグラウンドな音楽もやっていて、チャラチャラしたものなんて!っていう、出会った頃はそういうものの塊だったんです」
「それである日、出ていったような気がします。というか、サポートミュージシャンとしての仕事で、ツアーにも行くでしょ。当然、家にいないことが多くなりますよね。そのうちなんか来なくなりました。別れるとかそんな話をした記憶もないですし」
YMOとしての人気爆発によって坂本龍一さんの生活が激変し、気づいたら自然消滅していたというのが実態のようです。
劇的な別れではなく、ゆるやかに離れていったという印象を受けます。
この別れの後、大貫妙子さんが制作したのが「新しいシャツ」という楽曲です。
坂本龍一さんはのちに自伝「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」のなかで、この曲について率直に語っています。
「今だから明かしますが、ぼくは20代前半の一時期、大貫さんと暮らしていました。しかし、別の相手ができたぼくは、その部屋を出ていってしまった。本当にひどいことをしてしまいました」
「そして当時、大貫さんが発表したのが『新しいシャツ』で、この曲の歌詞を聴くとつい泣いてしまう。でも、泣いてしまうのは自分だけじゃなくて、ふたりのコンサートでぼくができるだけ感情を抑えながらこの曲のイントロを弾き始めると、なぜか客席からも嗚咽が聞こえるんですね」
坂本龍一さんは「新しいシャツ」を自分への別れの歌として受け取っていたわけですが、大貫妙子さん本人はというと——。
「はい……。よく言われます。これ、坂本さんのことですかって。でも、これはただの歌詞です。だって〈新しいシャツに/袖をとおしながら/私を見つめてる/あなたの心が/今は/とてもよくわかる〉というような人ではありません。坂本さんは(笑)」
大貫妙子さん自身は「ただの歌詞」と否定していますが、坂本龍一さんが涙するほど深く受け取っていたことは確かで、2人の別れがいかに複雑な感情を残したかがうかがえます。
「ROMANTIQUE」で再び手を借りた理由
興味深いのは、破局後も大貫妙子さんが坂本龍一さんの力を借り続けていたという点です。
「新しいシャツ」を収録した1980年のアルバム「ROMANTIQUE」は大貫妙子さん初のヒット作となりましたが、このアルバムを制作するにあたり、大貫妙子さんは別れた坂本龍一さんの知識と編曲を再び必要として協力を仰いでいます。
恋愛関係は終わっても音楽的な信頼関係は変わらなかった——この2人の関係の特殊さが、その後も長年にわたる共同作業として続いていくことになります。
大貫妙子が結婚しなかった理由と独身を貫いた音楽人生
大貫妙子さんは過去に一度も結婚したことがなく、現在も独身です。
結婚しなかった理由について大貫妙子さんは公には明かしていないため、詳しいことはわかっていません。
ただ、音楽活動への向き合い方や生き方の哲学を見ると、その背景が少しだけ見えてくるような気がします。
大貫妙子さんは、音楽を「身を削るような仕事」と表現しています。
自分の中にある様々な感情・喜び・哀しみと真正面から向き合わなければ音楽は生まれない——そういう姿勢で創作を続けてきた人です。
ソロ活動開始当初から、音楽的自由を最優先に置いて生きてきた姿勢が、結婚という選択よりも音楽人生を選ぶことにつながったのかもしれません。
また、坂本龍一さんとの別れ以降も、大貫妙子さんは特定のパートナーとの交際が表に出てくることはありませんでした。
50年にわたるキャリアのなかで、恋愛よりも音楽との関係を深め続けてきたといえるでしょう。
大貫妙子さんは2025年にデビュー50周年を迎え、ライブアルバム「ピーターと仲間たち」をリリースするなど、現在も精力的に活動を続けています。
山下達郎さんや矢野顕子さんらとともに日本のポップス黎明期を作り上げた一人として、変わらぬ存在感を放っています。
独身・子供なしで音楽人生を全うする生き方
日本の芸能界では結婚・出産を経てキャリアを続けるアーティストも多いなかで、大貫妙子さんのように独身を貫きながら第一線で活動し続けるシンガーソングライターは決して多くありません。
1970年代にデビューし、2020年代の現在もコンサートを開催し、新しいアルバムをリリースし続けているというのは、並外れたバイタリティと音楽への愛情があってこそです。
「結婚しなかった」ということを単なる事実として淡々と受け止め、音楽だけを見つめ続けてきた姿勢が、この長いキャリアを支えているのかもしれません。
坂本龍一さんとの別れの後も、大貫妙子さんは誰かに依存することなく自分の音楽を磨き続けました。
1998年には映画「東京日和」の音楽で第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞するなど、客観的な評価という形でもその実力が証明されています。
「音楽を作ることは身を削るような仕事」という言葉は、結婚・家庭よりも自分の内側と向き合い続けることを選んだ大貫妙子さんのキャリア全体を象徴しているように思えます。
坂本龍一の死去と大貫妙子の追悼コメント
別れてからも長年にわたり音楽的な協力関係を続けてきた2人でしたが、2023年3月28日、坂本龍一さんはガンにより71歳で亡くなりました。
大貫妙子さんは自身のTwitterで、以下の追悼コメントを発表しています。
「音楽を創る作業、作曲は身を削るような仕事です。自分の中にあるたくさんの感情、喜び哀しみを含む多様な事実と真正面から向き合わなければ、蓄積してこないものであって。だからこそ、美しいメロディーは人の心を動かすのだと思います。そうした珠玉の作品を、私達に残してくれました」
「なにより、気骨ある人でした。坂本さんとご縁の深かった方のご好意により荼毘に付す前日、お会いすることが叶いました。肉体に宿ったすべての苦しみから解き放たれ本当に安らかで綺麗なお顔でした。家族に見守られ安心して旅立ったことを思います ありがとう坂本さん 大貫妙子」
亡くなる前日に対面が叶ったという事実からも、別れた後も2人の間には特別な縁が続いていたことがわかります。
坂本龍一さんは亡くなる前年の2022年、文藝月刊誌「新潮」のインタビューで「20代の前半、音楽仲間である大貫妙子と一緒に暮らしていた」と自ら明かしていました。
50年近い歳月が経ってもなお、大貫妙子さんとの日々を大切な思い出として語っていたことが、2人の関係の深さを物語っています。
また、2人は1985年から活動を共にし、2010年には「大貫妙子 & 坂本龍一」名義のアルバム「UTAU」をリリース。同年11〜12月にはツアーも行っています。
恋人として一時代を共にし、音楽的パートナーとして半世紀近く支え合った2人の関係は、日本の音楽史においても特別な位置を占めるものといえるでしょう。
坂本龍一さんが亡くなったことで、大貫妙子さんにとってかけがえのない音楽的同志を失ったことになりますが、坂本龍一さんが残した音楽とともに、2人が共に作り上げた作品群は今後も語り継がれていくはずです。
矢野顕子・山下達郎との関係
大貫妙子さんの音楽人生を語るうえで、矢野顕子さんと山下達郎さんという2人の存在も欠かせません。
山下達郎さんとは、1973年にシュガー・ベイブを結成した仲間です。
大貫妙子さんが山下達郎さんと出会ったのは、楽譜を買いに訪れたヤマハの店頭での出来事がきっかけでした。
その後、「シュガー・ベイブ」を結成し、1973年から1976年まで活動を共にしました。
シュガー・ベイブ解散後、大貫妙子さんはソロ活動へ、山下達郎さんもソロアーティストとしてそれぞれの道を歩みましたが、音楽的な縁は続いています。
1994年には山下達郎さんのライブ「TATSURO YAMASHITA Sings SUGAR BABE」にゲスト出演するなど、シュガー・ベイブのメンバーとしての絆は今も健在です。
2025年には山下達郎さんのデビュー50周年スペシャルをJFNがラジオ放送した際にも、大貫妙子さんがナレーションと喫茶SONGS店主役として参加しており、半世紀を超えた交流が続いています。
矢野顕子さんとの関係については、坂本龍一さんを通じたつながりが有名です。
坂本龍一さんは大貫妙子さんと別れた後、1982年に矢野顕子さんと結婚(2006年に離婚)しており、大貫妙子さんと矢野顕子さんは同じ音楽シーンで長年活動を続けてきた仲間でもあります。
大貫妙子さんは矢野顕子さんに楽曲「いらないもん」を提供するなど、音楽的な協力関係も築いてきました。
2000年には大貫妙子・奥田民生・鈴木慶一・宮沢和史・矢野顕子による「LIVE Beautiful Songs」も実現しており、日本の音楽シーンにおける横のつながりの深さが感じられます。
こうした豊かな人間関係のなかで音楽を作り続けてきた大貫妙子さんにとって、「結婚しない」という選択は孤独を意味するものではなく、同じ志を持つ音楽仲間との深い絆のなかで生きることを選んだ結果ともいえるかもしれません。
大貫妙子の結婚相手・子供・娘はいるのか
- 大貫妙子のプロフィール──生い立ちとシュガー・ベイブ時代
- 父親・健一郎の壮絶な生涯──特攻隊員として生き残った男
- 大貫妙子に子供・娘はいるのか
大貫妙子のプロフィール──生い立ちとシュガー・ベイブ時代
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| 本名 | 大貫妙子 |
|---|---|
| 生年月日 | 1953年11月28日 |
| 2026年03月05日現在の年齢 | 72歳 |
| 出身地 | 東京都杉並区久我山 |
| 血液型 | B型 |
| 愛称 | ター坊 |
| 学歴 | 都立桜水商業高校(現・都立杉並総合高校)卒業、お茶の水美術学校 |
| 職業 | 歌手・シンガーソングライター・作詞家・作曲家 |
| 所属レーベル | ソニー・ミュージックダイレクト |
| 結婚 | 未婚(独身) |
| 子供 | なし |
大貫妙子さんは1953年、東京都杉並区久我山で生まれました。
中学・高校時代からアマチュアバンドを組み、フィフス・ディメンションやママス&パパスをカバーするなど、早くから音楽への強い関心を持っていました。
高校卒業後は陶芸家を目指してお茶の水美術学校に入学しましたが、腰を痛めて陶芸の道は断念。
その後、喫茶店でアルバイト中に声をかけられ、フォークグループ「三輪車」を結成してデビューの機会を得ます。
しかし音楽性が合わず、1972年頃に楽譜を買いに訪れたヤマハの店頭で山下達郎さんと出会い、1973年に村松邦男さんらとともに「シュガー・ベイブ」を結成しました。
シングル1枚・アルバム1枚をリリースした後、1976年に解散となりましたが、のちに「日本ポップス史に残る伝説のバンド」として再評価されることになります。
シュガー・ベイブ解散後の1976年にソロデビューし、坂本龍一さんらの協力のもとで独自の音楽世界を構築。
ヨーロピアンサウンドを取り入れたシティポップの旗手として、1980年代に黄金期を迎えました。
1998年には映画「東京日和」で第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞しています。
高校時代、大貫妙子さんは喫茶店のフロアでアルバイトをしながら、キッチンの同僚から店のレコードブースで歌うことを勧められ、キャロル・キングの「イッツ・トゥー・レイト」などをギターで弾き語っていたといいます。
そうしたアルバイト生活のなかから芸能界への扉が開いていったというのが、大貫妙子さんの原点です。
1972年当時はグループサウンズが全盛の時代でしたが、大貫妙子さんがフォーク・ポップスとは異なる欧風のサウンドを追求し続けたことが、その後の独自のキャリアにつながっています。
父親・健一郎の壮絶な生涯──特攻隊員として生き残った男
大貫妙子さんの家族構成は、両親・兄・弟の5人家族です。
父親の大貫健一郎さんは、特別攻撃隊(特攻隊)の隊員として、戦争の最前線に立った人物でした。
| 氏名 | 大貫健一郎 |
|---|---|
| 生年 | 1921年(福岡県生まれ・台湾育ち) |
| 学歴 | 基隆中学卒業・拓殖大学卒業 |
| 軍歴 | 陸軍小倉歩兵第14連隊入隊(1942年10月)→特攻隊員(1944年8月) |
| 著書 | 『特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た』(2009年刊) |
| 死去 | 2012年3月(享年90歳) |
健一郎さんは1942年10月に入隊し、翌1943年6月には特別操縦見習士官制度に志願して合格。
1944年8月に陸軍特攻隊の隊員となりました。
そして1945年4月、知覧飛行場から特攻機に乗り沖縄へ向けて飛び立ちましたが、不時着して生き残ります。
生き残った特攻隊員は「振武寮」という施設に16日間軟禁され、再出撃を強いられる境遇に置かれていたことが、のちの著書で明らかになりました。
その後、三重県菰野町にあった陸軍の秘匿飛行場で終戦を迎えた健一郎さんは、戦後に建設機械のリース会社を開業し、東京で家庭を築きます。
2009年には、NHKのディレクター渡辺考さんとの共著で『特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た』を刊行。
生き残り特攻隊員としての体験を証言し、振武寮の実態を告発しました。
大貫妙子さんは著書の紹介で「父は特攻隊が美化されることを、常に危惧していました」と語っており、戦争の真実を伝え続けた父親の姿勢が大貫妙子さんの世界観にも影響を与えていることがうかがえます。
健一郎さんは2012年3月に90歳で亡くなりました。
特攻隊員として死を覚悟し、しかし生き残ったという経験は、健一郎さんにとって一生をかけて向き合い続けるテーマでした。
そうした父親を持つ大貫妙子さんが、音楽を「身を削るような仕事」と表現し、感情と真正面から向き合う創作姿勢を持っていることは、決して偶然ではないかもしれません。
健一郎さんが特攻隊の経験を語り継いだのは、若い世代に戦争の実態を正確に伝えたいという強い思いからでした。
特攻隊が「美化」されることへの危惧——その言葉には、死を美化する文化への根本的な抵抗が込められています。
娘である大貫妙子さんが音楽を通じて感情と正直に向き合い続けてきた姿勢は、そんな父親から受け継いだ誠実さそのものといえるかもしれません。
大貫妙子に子供・娘はいるのか
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大貫妙子さんに子供・娘はいません。
一度も結婚したことがなく、現在も独身であるため、子供がいないのは自然な流れといえます。
関連検索で「大貫妙子 娘」というキーワードが出てくることから、娘がいるのではないかと検索する人も一定数いるようです。
しかし、大貫妙子さんが子供を持つという情報はこれまで一切出てきておらず、娘や息子の存在を示す情報は現在も確認されていません。
大貫妙子さんのキャリアは1973年のシュガー・ベイブ結成から現在まで50年以上に及びます。
その長い年月のなかで、家庭よりも音楽を選んで歩んできた道が、結果として子供のいない人生につながっています。
ただ、大貫妙子さんにとって「子供がいない」ということは決してネガティブな意味を持っていないように見えます。
自身の音楽哲学である「身を削って感情と向き合う創作活動」を、50年以上ぶれずに続けてきた人生そのものが、大貫妙子さんの選択の正しさを証明しているといえるでしょう。
現在も毎年コンサートを開催し、新しい音楽を届け続けている大貫妙子さん。
子供や孫に囲まれる人生とは異なる形で、多くのリスナーとの間に深いつながりを持っています。
2025年のデビュー50周年コンサート「ピーターと仲間たち」では、2023年からスタートした新しいコンセプトのコンサートツアーを継続しており、これからも音楽を通じて多くの人々と結びついていく姿勢を崩していません。
結婚・子供という形ではなくとも、半世紀にわたって日本の音楽シーンに貢献し続けてきた大貫妙子さんの人生は、音楽そのものに捧げた豊かな人生といえるでしょう。
大貫妙子さんは、自身のラジオ番組や公演を通じてリスナーと長年にわたりつながり続けてきました。
STVラジオの「大貫妙子のone fine day」や、J-WAVEでの「THE UNIVERSE」など、ラジオを通じた語りかけは今も多くのファンに愛されています。
家族・子供という血のつながりとは異なる形で、音楽を介した深い縁を積み重ねてきた大貫妙子さん。その歩みこそが、70年を超える人生の豊かさを示しているのかもしれません。
大貫妙子の結婚・子供・交際歴まとめ
- 大貫妙子さんは1953年11月28日生まれの東京都杉並区出身のシンガーソングライター
- シュガー・ベイブで山下達郎さんと活動した後、1976年にソロデビュー
- 坂本龍一さんと20代前半に同棲していたことを坂本龍一さんが自伝で明かしている
- 2人の出会いはコタツの中での会話がきっかけで急速に親しくなった
- 「SUNSHOWER」(1977年)は坂本龍一さんが全曲編曲を担当した共同制作の名盤
- 破局は1978年頃、YMO結成で多忙になった坂本龍一さんが自然に離れていく形で終わった
- 楽曲「新しいシャツ」を坂本龍一さんは「自分への別れの歌」として涙するほど受け止めた
- 大貫妙子さん本人は「ただの歌詞」と否定している
- 大貫妙子さんは一度も結婚したことがなく現在も独身を貫いている
- 結婚しなかった理由は公言されていないが、音楽一筋の人生を歩んできたことと無関係ではない
- 子供・娘はいない
- 坂本龍一さんが2023年3月28日に亡くなった際、大貫妙子さんは荼毘に付す前日に対面が叶った
- 父親の大貫健一郎さんは特攻隊員として知覧から飛び立ち生き残った人物で2009年に著書を刊行
- 矢野顕子さんへの楽曲提供など音楽仲間との横のつながりも深い
- 2025年にデビュー50周年を迎え現在も精力的にコンサート・レコーディング活動を継続中
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