二岡智宏の父親・清司さんは交通事故で他界|心の支えになった家族エピソード

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二岡智宏の父親・清司さんは交通事故で他界|心の支えになった家族エピソード

二岡智宏さんの父親について知りたいと考えている方は多いのではないでしょうか。

二岡智宏さんは広島・広陵高校から近畿大学を経て、1999年にドラフト逆指名2位で巨人に入団した元プロ野球選手です。

プロ通算1314安打・173本塁打を記録し、打てる遊撃手として長年活躍しました。

その野球人生の原点にいたのが、幼少期から野球を手ほどきしてくれた父親・清司さんの存在です。

しかし清司さんは、二岡さんが広陵高校2年生だった1993年10月に交通事故で急逝しています。

この記事では、二岡智宏さんの父親・清司さんの人物像や事故の経緯、そして家族に受け継がれた野球の遺志について詳しく整理します。

記事のポイント

①:父親・清司さんは51歳で交通事故により他界

②:清司さんは二岡智宏に野球を手ほどきした人物

③:引退会見で亡き父への感謝を語った

④:息子・択実さんが野球の道を継承している

二岡智宏の父親・清司さんの生涯|野球指導と突然の別れ

  • 【51歳で急逝】父親・清司さんのプロフィール
  • 清司さんが息子に野球を手ほどきした背景
  • 広陵高校時代の父子の絆と秋の県大会
  • 1993年10月の交通事故と突然の別れ
  • 父親の死を乗り越えた二岡智宏の高校時代
  • 兄・聡さんと共有する父親の野球への思い

【51歳で急逝】父親・清司さんのプロフィール

二岡智宏さんの父親について、まず基本的な情報を整理します。

項目 内容
名前 二岡清司(におか・せいじ)
生年(推定) 1942年頃
没年月 1993年10月
享年 51歳
出身地 広島県三次市(推定)
死因 交通事故
職業 非公表
家族 長男・聡さん、次男・智宏さん

清司さんの名前と家族構成

父親の名前は清司(せいじ)さんで、二岡智宏さんの引退会見時の報道で明らかにされています。

清司さんは広島県三次市で家族と暮らしていたとみられ、息子の智宏さんと兄の聡さんの2人の男の子を育てていました。

三次市は広島県北部に位置する自然豊かな地域で、野球が盛んな土地柄としても知られています。

清司さんの具体的な職業については公表されていませんが、息子たちに熱心に野球を教えていたことから、スポーツに対する強い情熱を持っていた人物だったことがうかがえます。

51歳という若さでの急逝

清司さんが亡くなったのは1993年10月のことで、当時51歳という若さでした。

死因は交通事故で、息子の試合を応援するために車で球場へ向かう途中での出来事です。

二岡智宏さんが広陵高校2年生の秋で、まさにこれからプロ野球選手への道を本格的に歩み始めようとしていた時期と重なります。

清司さんの突然の死は、二岡家にとって計り知れない衝撃だったことは想像に難くありません。

清司さんの人柄と野球への関わり

清司さんは息子たちに自ら野球を手ほどきした人物として知られています。

二岡智宏さんが引退会見で「自分に野球を手ほどきしてくれた肉親」と語っていることからも、清司さんが単なる応援者ではなく、実際に技術指導をしていた父親だったことがわかりますよね。

息子の試合には必ず駆けつけるほど熱心な応援者でもあり、亡くなった日もまさに試合観戦に向かう途中でした。

清司さんのような存在があったからこそ、二岡智宏さんはプロ野球選手という夢を追い続けることができたのかもしれません。

清司さんが息子に野球を手ほどきした背景

二岡智宏さんの野球人生の出発点には、父親・清司さんの存在がありました。

広島県三次市という野球の土壌

二岡智宏さんが生まれ育った広島県三次市は、広島カープのお膝元である広島県に位置する地域です。

広島県は古くからプロ野球への関心が高く、地元の子供たちが幼少期から野球に親しむ文化が根付いています。

清司さんも例外ではなく、息子の智宏さんに対して早い段階から野球の基本を教え込んでいたとみられます。

三次市は山間部に位置していますが、だからこそ広いグラウンドや自然環境を活かした練習ができる環境が整っていたのではないでしょうか。

幼少期からの野球指導の内容

清司さんが具体的にどのような指導をしていたかの詳細は公表されていません。

ただ、二岡智宏さんが引退会見で「自分に野球を手ほどきしてくれた肉親」と明言していることから、キャッチボールやバッティング練習など、基礎的な技術指導を父親から直接受けていたことは確かです。

二岡智宏さんは後にプロで173本塁打を放つ強打者へと成長しますが、その打撃センスの土台は幼少期に清司さんが作り上げたものだったといえるでしょう。

父から子への手ほどきが、結果的にプロ野球界を代表する遊撃手を生み出したと考えると、清司さんの指導眼は確かなものだったことがわかります。

兄・聡さんへの指導と二人の息子への期待

清司さんは智宏さんだけでなく、長男の聡さんにも野球を教えていました。

聡さんも後に広陵高校で野球部に所属しており、兄弟揃って名門校で甲子園を目指すまでに成長しています。

2人の息子が同じ名門・広陵高校の野球部で活躍したという事実は、清司さんの野球教育がいかに本格的なものだったかを物語っていますよね。

清司さんにとって、息子たちの野球での活躍は何よりの楽しみだったはずです。

ここ、気になるポイントですが、清司さん自身が野球経験者だったかどうかについては明らかにされていません。

ただ、2人の息子をともに強豪校の野球部員に育て上げた実績から、相当な野球知識と情熱を持っていた人物であることは間違いないでしょう。

広陵高校時代の父子の絆と秋の県大会

二岡智宏さんが広陵高校に進学したことで、父子の野球を通じた絆はさらに深まりました。

名門・広陵高校への進学

広陵高校は広島県を代表する野球の名門校で、甲子園出場回数も全国トップクラスの実績を誇ります。

二岡智宏さんは1992年に広陵高校へ入学し、野球部に入部しました。

兄の聡さんも広陵高校の野球部に在籍しており、兄弟そろって名門校で腕を磨いていたことになります。

清司さんにとって、息子たちが広島県屈指の強豪校でプレーする姿は誇らしかったに違いありません。

広陵高校は中井哲之監督のもとで全国的な強豪として知られ、プロ野球選手を数多く輩出してきた実績があります。

そのような名門校に息子2人が揃って入部するということ自体、清司さんの指導力の高さを証明しているといえるでしょう。

清司さんの熱心な応援スタイル

清司さんは息子の試合には必ず駆けつける熱心な応援者だったことがわかっています。

三次市から広島市内の球場まではかなりの距離がありますが、それでも車を走らせて応援に向かっていました。

広島県北部の三次市から広島市までは車で約1時間半ほどかかる道のりです。

高校野球の公式戦ともなれば、平日開催の試合もあったはずですが、清司さんは可能な限り足を運んでいたのでしょう。

自ら野球を教え込んだ息子がどこまで成長しているか、その目で確かめたいという思いがあったのかもしれません。

1993年秋の県大会準決勝の日

運命の日となったのは、1993年10月に開催された秋の広島県大会準決勝の日です。

二岡智宏さんは当時高校2年生で、チームの主力選手として秋季大会に出場していました。

秋季大会は翌年春のセンバツ甲子園の選考に直結する重要な大会であり、準決勝まで勝ち進んだ広陵高校は大きな注目を集めていたはずです。

清司さんもこの大事な試合を見届けるため、いつものように車で球場へと向かっていました。

しかし、この日が清司さんにとって最後のドライブとなってしまったのです。

1993年10月の交通事故と突然の別れ

二岡智宏さんの人生で最も大きな転機となったのが、父親・清司さんの突然の死です。

事故の概要と状況

1993年10月、清司さんは秋の広島県大会準決勝を応援するために車で球場へ向かう途中、交通事故に遭い他界しました。

当時51歳でした。

息子の試合を見に行くという、ごく日常的な行動の最中に起きた悲劇です。

事故の詳しい状況や場所についてはプライバシーの観点から詳細に報じられていませんが、産経新聞の報道では「不慮の事故」と表現されています。

清司さんが試合会場に到着することはなく、二岡智宏さんは父親の到着を待つことなく試合に臨んだことになります。

高校2年生の二岡智宏が受けた衝撃

二岡智宏さんは当時まだ16歳の高校2年生という多感な時期にありました。

自分に野球を教えてくれた父親が、まさに自分の試合を見に来る途中で命を落としたという事実は、計り知れないほどの衝撃だったはずです。

野球を続けること自体が辛くなってもおかしくない状況だったでしょう。

自分のために球場へ向かっていた父親が事故に遭ったという事実に、責任を感じた可能性もあるかもしれません。

それでも二岡智宏さんは野球を続ける道を選びました。

家族に残された深い悲しみ

清司さんの急逝は、二岡智宏さんだけでなく家族全体にとって大きな喪失でした。

兄の聡さんも広陵高校の野球部で活動しており、兄弟にとって最大の応援者であり指導者を失ったことになります。

51歳という働き盛りの年齢での急逝は、経済面でも家族に大きな影響を与えたことが推測されます。

それでも二岡家の兄弟は、父親の遺志を継ぐように野球の道を歩み続けたのです。

清司さんが最後に向かおうとしていたのが息子の野球の試合だったという事実は、いかに家族の中で野球が大きな存在だったかを物語っています。

父親の死を無駄にしないという覚悟が、その後の二岡兄弟の野球人生を支え続けたのかもしれません。

父親の死を乗り越えた二岡智宏の高校時代

清司さんを失った後も、二岡智宏さんは広陵高校で野球を続けました。

悲しみの中で野球に打ち込んだ理由

父親を亡くした直後の二岡智宏さんの心境は、本人以外には想像するしかありません。

ただ、二岡智宏さんが野球を辞めずに続けた理由は、父親・清司さんが自分に野球を教えてくれたからだったと考えるのが自然です。

清司さんが命をかけて応援に向かったその試合の延長線上に、自分のプロ野球人生があるのだと感じていたのかもしれません。

むしろ野球を辞めてしまうことのほうが、父親の思いを裏切ることになるという意識があったのではないでしょうか。

悲しみを乗り越えるためにも、グラウンドでバットを振り続けることが二岡智宏さんにとっての答えだったのです。

広陵高校での成長と実績

二岡智宏さんは広陵高校で主力選手として活躍し、打てる内野手としての才能を開花させていきました。

広陵高校は中井哲之監督の指導のもと、厳しい練習で知られる名門校です。

父親を失った悲しみを抱えながらも、二岡智宏さんは中井監督のもとで心身ともに鍛え上げられ、大学進学後のさらなる飛躍につながる基盤を築きました。

高校時代の厳しい環境を乗り越えられた背景には、清司さんから受け継いだ野球への情熱と精神的な強さがあったといえるでしょう。

チームメイトや中井監督の支えもあり、二岡智宏さんは父親の死を乗り越えて高校3年間を全うすることができました。

父親の存在が残した精神的支柱

清司さんは亡くなった後も、二岡智宏さんの心の中で生き続けていたことは間違いありません。

プロ入り後の引退会見で父親について語ったことからもわかるように、二岡智宏さんにとって清司さんは常に原動力であり続けました。

「天国の父に見てもらいたい」という思いが、厳しい練習やプレッシャーを乗り越える力になっていたのかもしれません。

高校時代に経験した大きな喪失は、逆に二岡智宏さんを精神的に強くし、プロの世界で15年間戦い抜く土台を作ったともいえます。

困難な状況でも折れない精神力は、清司さんとの別れを経験した高校時代に培われたものだったのでしょう。

兄・聡さんと共有する父親の野球への思い

二岡智宏さんには兄の聡さんがおり、兄弟で父親の野球魂を受け継いでいます。

兄・聡さんのプロフィールと広陵高校での活躍

兄の二岡聡さんも広陵高校の野球部に所属しており、高校時代には甲子園のステージでプレーした経験を持っています。

聡さんは智宏さんの先輩にあたり、兄弟で同じ名門校のユニフォームに袖を通していました。

清司さんにとって、2人の息子が揃って広陵高校で野球をする姿は何よりの誇りだったはずです。

聡さんの高校時代の写真がスポーツ紙に掲載された際には、歓喜の表情を浮かべてホームインする姿が地元でも話題になったといわれています。

聡さんの現在と中学野球の指導者としての活動

聡さんは現役選手としてプロの道には進みませんでしたが、その後は中学野球チーム「高陽スカイバンズ」の監督を務めるなど、指導者として野球に関わり続けています。

高陽スカイバンズは広島県で活動する中学生の硬式野球チームで、聡さんはここで多くの若手選手の育成に携わってきました。

父親・清司さんが息子たちに野球を教えたように、聡さんも次の世代に野球の技術と精神を伝える側に立っているのです。

この「教える」という行為の連鎖は、まさに清司さんから始まった二岡家の野球の伝統といえるでしょう。

兄弟が共有する父親の記憶

清司さんを失ったのは智宏さんだけでなく、兄の聡さんにとっても大きな出来事でした。

2人の兄弟が揃って野球に関わり続けていることは、父親への恩返しという意味合いもあるのかもしれません。

智宏さんはプロの舞台で、聡さんは指導者の立場で、それぞれの形で清司さんの野球への情熱を体現してきました。

父親が遺した野球の種は、兄弟2人の手によってしっかりと育てられていることがわかりますよね。

清司さんの存在は、二岡家の野球一家としてのアイデンティティの根幹にあるといっても過言ではありません。

兄弟がそれぞれの立場で活躍を続けている姿は、天国の清司さんにとっても何よりの喜びだったことでしょう。

二岡智宏が父親から受け継いだ野球魂と家族の今

  • 近大からドラフト入団|父への誓い
  • プロ通算173本塁打を支えた父の教え
  • 引退会見で語った亡き父への感謝
  • 妻・用稲千春さんとの結婚と家庭
  • 息子・択実さんに受け継がれる野球DNA
  • 指導者としての現在と父親の影響

近大からドラフト入団|父への誓い

 

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広陵高校を卒業した二岡智宏さんは、近畿大学へ進学しプロへの道を切り拓きました。

近畿大学での野球と成長

二岡智宏さんは広陵高校卒業後、近畿大学へ進学して硬式野球部に所属しました。

近畿大学は関西の大学野球でも名門として知られ、多くのプロ野球選手を輩出している伝統校です。

二岡智宏さんはここで4年間、さらに技術を磨き上げました。

父親・清司さんの死から数年が経過していましたが、野球を続ける原動力の中に父親の存在が常にあったことは想像に難くありません。

大学野球のレベルは高校とは比較にならないほど高く、全国から集まった実力者との競争の中で二岡智宏さんはさらなる成長を遂げました。

1999年ドラフト逆指名2位で巨人入団

1999年、二岡智宏さんは当時の逆指名制度を利用してドラフト2位で読売ジャイアンツに入団しました。

清司さんが亡くなってから約6年後のことです。

父親が生きていれば、息子のプロ入りをどれほど喜んだことでしょうか。

二岡智宏さんにとってプロ野球選手になるという夢の実現は、同時に天国の父親への最大の恩返しでもあったはずです。

巨人という球界を代表する球団への入団は、清司さんが幼少期に蒔いた種が大きく花開いた瞬間だったといえます。

父の教えがプロの扉を開いた

二岡智宏さんがプロ入りできた背景には、幼少期に清司さんから受けた基礎指導があります。

バッティングの基本やボールへの向き合い方といった野球の原点は、清司さんが教えてくれたものでした。

その基礎の上に広陵高校での厳しい練習と近畿大学での実戦経験が積み重なり、ドラフト指名されるレベルまで到達したのです。

清司さんの指導なくして、二岡智宏さんのプロ野球人生は始まらなかったといっても過言ではないでしょう。

広島の少年を球界屈指の遊撃手に育て上げた原点が、清司さんとのキャッチボールや素振りの日々にあったことは間違いありません。

プロ通算173本塁打を支えた父の教え

 

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巨人に入団した二岡智宏さんは、打てる遊撃手として活躍しました。

項目 内容
名前 二岡智宏(におか・ともひろ)
生年月日 1976年4月29日
2026年04月03日現在の年齢 49歳
出身地 広島県三次市
出身校 広陵高校→近畿大学
プロ入り 1999年ドラフト逆指名2位(巨人)
通算成績 1457試合・1314安打・173本塁打
表彰 2003年ベストナイン
引退 2013年

巨人時代の主な活躍

二岡智宏さんは巨人で不動の遊撃手として長年レギュラーを務め、2003年にはベストナインに選出されています。

特に印象的だったのが2006年4月の中日戦で、史上2人目となる1試合2満塁本塁打を記録した試合です。

さらに2000年にはセ・リーグ優勝を決めるサヨナラ本塁打を放ち、チームの歓喜の瞬間を自らのバットで作り出しました。

打てる遊撃手という希少な存在として、長嶋茂雄監督時代の巨人打線を支えた功績は非常に大きなものがあります。

日本ハムへの移籍と晩年

2008年オフにトレードで日本ハムファイターズへ移籍し、新天地でも指名打者や代打の切り札として存在感を発揮しました。

しかし晩年は両足の故障に悩まされ、最終年となった2013年は36試合出場で3安打という成績に終わっています。

プロ15年間で通算1457試合に出場し、1314安打・173本塁打という立派な数字を残しました。

この長いプロ生活を支えたのは、幼少期に清司さんから教わった野球の基礎と「父の分まで頑張る」という強い意志だったのでしょう。

父の教えが生きた打撃スタイル

二岡智宏さんの打撃の特徴は、パワーと巧みさを兼ね備えた点にありました。

遊撃手でありながら173本塁打を放つパワーは、幼少期から清司さんに鍛えられた基礎体力と打撃フォームがあってこそです。

走攻守の三拍子が揃った選手として高く評価されていた背景にも、清司さんの「野球の基本を大切にする」教えが根底にあったのかもしれません。

引退時に「走攻守そろったプレーができなくなった。全部できないと意味がない」と語ったことからも、野球の総合力を重視する姿勢がうかがえますよね。

引退会見で語った亡き父への感謝

二岡智宏さんの引退会見では、亡き父親・清司さんへの思いが印象的に語られました。

2014年1月9日の引退会見

2014年1月9日、日本ハムの合宿所「勇翔寮」(千葉県鎌ケ谷市)で引退会見が行われました。

会見場に現れた二岡智宏さんは「吹っ切れたような表情だった」と報じられています。

「たくさんの人に支えられ、15年間の野球生活を全うできた。完全燃焼できたと思う」という言葉で会見をスタートさせました。

15年間のプロ生活を振り返る中で、数々のエピソードとともに語られたのが、高校時代に亡くした父親への思いだったのです。

引退会見には多くのメディアが集まり、二岡智宏さんの言葉一つひとつに注目が集まりました。

清司さんへの思いを口にした瞬間

引退会見で二岡智宏さんは、高校2年生の秋に交通事故で亡くなった父親・清司さんについて言及しました。

産経新聞の報道では「自分に野球を手ほどきしてくれた肉親との突然の別れ」と表現されており、二岡智宏さんが父親の存在をいかに大切に思っていたかが伝わります。

プロ入りから引退まで約15年、父親の死からは約20年が経過していましたが、清司さんへの思いは色褪せていなかったのです。

引退という大きな節目に父親のことを語ったのは、プロ生活の原点が清司さんにあったことの証でしょう。

「完全燃焼できた」という言葉の意味

二岡智宏さんが語った「完全燃焼できた」という言葉には、父親への報告の意味も込められていたのではないでしょうか。

清司さんが教えてくれた野球を、プロの舞台で15年間全力でやり切ったという誇りと、父親に見せたかったプレーを出し尽くしたという達成感があったはずです。

ケガについても「プレーには歯止めが利かない部分もある。悔いはない」と語り、全力で走り抜けたプロ生活を振り返りました。

天国の清司さんもきっと、息子の立派な引退会見の言葉を聞いて誇りに思ったことでしょう。

妻・用稲千春さんとの結婚と家庭

父親・清司さんを亡くした二岡智宏さんは、新たな家族を築いていきます。

用稲千春さんとの出会いと交際

二岡智宏さんは2005年10月18日に、フリーアナウンサーの用稲千春(よういね・ちはる)さんと入籍しました。

用稲千春さんは東京都青梅市出身で、元東日本放送所属のアナウンサーです。

2人の出会いは2002年のオフで、友人関係からいつしか恋人同士へと発展しました。

出会いから約3年の交際期間を経ての結婚で、二岡智宏さんは「結婚したからどうこう言われたくない。これまで通り、野球にしっかり専念するだけです」とコメントしています。

選手として脂の乗った29歳での結婚となり、新たなスタートを切りました。

用稲千春さんのプロフィール

項目 内容
名前 用稲千春(よういね・ちはる)
出身地 東京都青梅市
職業 フリーアナウンサー(元東日本放送)
結婚日 2005年10月18日
父親 用稲道也さん(団体職員)

用稲千春さんはフリー転向後、「サンデーモーニング」のレポーターや「ウォッチ!」のキャスターなどを務めた実力派のアナウンサーです。

結婚後は二岡智宏さんの野球人生を支え、家庭を守る存在として夫を支えてきました。

千春さんの父親は東京都青梅市在住の団体職員・用稲道也さんで、報道では千春さんが道也さんの長女であることも明かされています。

新たな家族と清司さんの遺志

二岡智宏さんにとって、家庭を持つことは父親・清司さんを亡くして以来の大きな節目だったことでしょう。

清司さんが息子たちに注いだような愛情を、今度は自分が家族に注ぐ番になったのです。

用稲千春さんという心強いパートナーを得たことで、選手としてもさらに安定したプレーができるようになったのかもしれません。

清司さんが生きていれば、息子の結婚を誰よりも祝福してくれたに違いありませんよね。

そして後に生まれた孫の択実さんに、自分と同じように野球を教える姿も見てみたかったことでしょう。

息子・択実さんに受け継がれる野球DNA

二岡智宏さんの野球の血は、息子の択実さんに確実に受け継がれています。

項目 内容
名前 二岡択実(におか・たくみ)
生年月日 2007年6月10日
2026年04月03日現在の年齢 18歳
出身地 東京都品川区
学校 青山学院高等部
ポジション 投手(高校から転向)
身長・体重 179cm・65kg
投打 右投右打

幼少期から始まった野球人生

択実さんは小学3年生の時に御殿山ファイターズで野球を始め、中学では大森ホワイトスネックスでプレーしました。

中学時代は野手としてプレーしており、この頃は父親・二岡智宏さんと同じ野手の道を歩んでいました。

注目すべきは、中学時代に二岡智宏さんの兄・聡さんが監督を務めていた高陽スカイバンズの存在です。

祖父・清司さんから始まった野球の連鎖が、叔父の聡さんを通じて次の世代の指導にも活かされているという構図がここにあります。

青山学院高での投手転向と成長

択実さんは青山学院高等部に進学後、チーム事情から投手へ転向しました。

1年夏からベンチ入りを果たし、3年夏にはエースとしてチームを牽引しています。

2025年夏の東東京大会2回戦では多摩大目黒を相手に先発し、7回4安打1失点の好投を見せました。

持ち球はスライダー・カーブ・チェンジアップで、高校2年時に右肘の手術を乗り越えてマウンドに復帰した経験も持っています。

この日はスタンドから父親の二岡智宏さんが応援に駆けつけており、かつて清司さんが息子の試合を見に行っていた姿と重なりますよね。

NPBを目指す米国留学の決断

択実さんは「第1志望はNPBに入って、おやじと同じ舞台に立って、おやじとはまた違う二岡という名で覚えてもらいたい」と語っています。

内部進学予定の青山学院大学ではなく、米国への野球留学を視野に入れているという決断も注目されています。

佐々木麟太郎さんや石川ケニーさんがアメリカの大学経由でドラフト指名を受けた前例に勇気をもらったと語る択実さんの姿には、祖父・清司さんから父・智宏さんへ、そして自分へと受け継がれた野球への情熱が感じられます。

両親からは「自分が本当にやりたいと思うなら行ってきなさい」と背中を押されており、温かい家族のサポートのもとで新たな挑戦に臨もうとしています。

指導者としての現在と父親の影響

引退後の二岡智宏さんは指導者として新たなキャリアを歩んでいます。

巨人コーチとしての10年間

二岡智宏さんは引退後、2016年から巨人のコーチに就任し、2024年からは阿部慎之助監督のもとでヘッド兼打撃チーフコーチを務めました。

途中の2019年には独立リーグ・富山GRNサンダーバーズの監督も経験しています。

選手育成に情熱を注ぐ姿勢は、かつて清司さんが息子たちに野球を教えていた姿と重なります。

プロの技術を次の世代に伝えるという指導者としての使命感には、父親から受けた恩を野球界に返したいという思いもあるのかもしれません。

ジェイプロジェクト監督への就任

2026年1月1日付で、社会人野球チーム・ジェイプロジェクト(名古屋市)の新監督に就任しました。

ジェイプロジェクトは居酒屋などを経営するジェイグループホールディングスが母体の企業チームで、選手たちは飲食店で勤務しながら練習に励んでいます。

二岡智宏さんは「自分が経験していないのは社会人野球だけ。心血を注いでいく」と意気込みを語りました。

東海地区には王子やヤマハ、トヨタ自動車といった強豪がひしめく激戦区ですが、豊富な指導経験を活かしてチームの底上げを目指しています。

父親・清司さんの影響が指導哲学に

二岡智宏さんの指導者としてのキャリアには、清司さんの存在が色濃く影響しているといえるでしょう。

清司さんが2人の息子に丁寧に野球を教えたように、二岡智宏さんも選手一人ひとりに向き合う指導を心がけているはずです。

プロ・アマ・独立リーグ・社会人と幅広いカテゴリーで指導経験を積んでいることからも、野球を通じて人を育てるという清司さんの精神が受け継がれていることがうかがえます。

父親が遺してくれた野球の原点を大切にしながら、二岡智宏さんはこれからも指導者として歩み続けるのでしょう。

清司さんから始まった野球の伝統は、智宏さんの指導を通じてさらに多くの選手たちへと広がり続けています。

二岡智宏の父親・清司さんの生涯と家族の総まとめ

  • 父親の名前は清司(せいじ)さんで、広島県三次市出身とみられる
  • 清司さんは1993年10月に交通事故で他界し、享年51歳だった
  • 二岡智宏さんに幼少期から野球を手ほどきした人物である
  • 事故当日は広陵高校の秋の県大会準決勝の応援に向かう途中だった
  • 二岡智宏さんは当時高校2年生で、多感な時期に父を失った
  • 兄・聡さんも広陵高校野球部に所属し、兄弟で父の野球魂を継承
  • 聡さんは中学野球チーム「高陽スカイバンズ」の監督を務めた
  • 二岡智宏さんは近畿大学を経て1999年ドラフト逆指名2位で巨人入団
  • プロ通算1457試合出場、1314安打173本塁打を記録
  • 2003年ベストナインに選出され、打てる遊撃手として活躍
  • 2014年の引退会見で亡き父・清司さんへの思いを語った
  • 妻は元フリーアナウンサーの用稲千春さん2005年に結婚
  • 長男・択実さんは青山学院高のエースとしてNPB入りを目指している
  • 択実さんは米国野球留学も視野に入れ、父と同じ舞台を目標にしている
  • 二岡智宏さんはジェイプロジェクト監督として指導者の道を歩んでいる

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