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三國清三さんのバツイチ疑惑について、気になっている方は多いのではないでしょうか。
フランス料理界の巨匠として名を馳せる三國清三さんは、「日本一予約の取れないレストラン」と称されたオテル・ドゥ・ミクニのオーナーシェフとして、約37年にわたり日本のフレンチ料理界をリードしてきた人物です。
そんな三國清三さんについて、ネット上では「バツイチ」「離婚」といったキーワードが検索に浮上しており、妻・久美子さんとの関係を心配する声も少なくありません。
この記事では、バツイチ疑惑の真相はもちろん、妻・久美子さんのプロフィールや馴れ初め、娘・珠杏さんの現在まで、三國家の素顔に迫ります。
記事のポイント
①:バツイチ疑惑は噂のみで、現在も離婚はしていない
②:妻・三國久美子は医者の娘でオテルドゥミクニのマダム
③:娘・三國珠杏は尾上右近と幼稚園から高校まで同級生
④:2006年暴力事件で書類送検の過去がある
三國清三はバツイチなのか?噂の真相と妻・久美子の実像
- 【結論】三國清三はバツイチではない
- バツイチ疑惑が浮上した2つの理由
- 妻・三國久美子のプロフィールと生い立ち
- 三國清三と久美子の馴れ初めと結婚の経緯
- 久美子がマダムとして支えた25年間の軌跡
- 娘・三國珠杏(じゃん)の現在と同級生
【結論】三國清三はバツイチではない
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結論から言うと、三國清三さんは現在もバツイチではなく、妻・久美子さんとの婚姻関係を続けています。
ネット上に「三國清三 バツイチ」「三國清三 離婚」という検索ワードが存在することは確かですが、これはあくまで根拠のない噂であり、実際に離婚したという事実は確認されていません。
ここ、気になっている方も多いと思うので、しっかり整理していきますね。
バツイチ説はどこから来たのか
三國清三さんにバツイチ疑惑がかかるようになった背景には、大きく2つの誤解があります。
1つ目は、三國清三さんのインタビュー記事や料理関係の特集記事に、他の有名人の離婚ニュースが「関連記事」としてリンクされることが多いためです。
ウェブメディアでは、アクセス数を増やすためにさまざまな記事が自動的に関連コンテンツとして表示される仕組みがあります。
そのため「三國清三さんの記事を読んでいたら離婚という文字が目についた」という経験をした方が多く、まるで三國清三さん自身が離婚したかのような印象が生まれてしまうのです。
2つ目の理由は、三國清三さんが運営するYouTubeチャンネルに、妻・久美子さんがほとんど登場しないことです。
料理動画を中心に発信する三國清三さんのYouTubeには、娘の珠杏さんが出演することはありますが、久美子さんの姿はほぼ見当たりません。
それを見た視聴者が「もしかして別居しているのでは?」という憶測をネット上に書き込み、バツイチ疑惑が広まっていったとみられます。
三國清三が離婚していない根拠
久美子さんは現在もフードコンサルタントや料理教室で活動しており、夫婦関係が続いていることは各種メディアの取材でも確認されています。
三國清三さん自身も、さまざまなインタビューで妻・久美子さんへの感謝を繰り返し語っており、離婚を示唆するような発言は一切ありません。
バツイチという噂はデマであり、三國清三さんと久美子さんは現在も良好な夫婦関係を維持しています。
久美子さんは「マダム」として公認の存在
三國清三さんは久美子さんをオテル・ドゥ・ミクニの「マダム」として公式に位置づけており、これは単なる妻以上の信頼関係を示しています。
レストランのマダムとは、フランス料理の世界では厨房の総帥であるシェフと並ぶほど重要なポジションです。
そのマダムという役割を25年以上にわたって任せ続けたことが、三國清三さんの久美子さんへの絶大な信頼を物語っています。
バツイチという噂は完全な誤解であり、三國ファミリーは現在も仲の良い家族関係を続けていますよ。
バツイチ疑惑が浮上した2つの理由
ここでは、三國清三さんにバツイチ疑惑が生まれた2つの理由をより詳しく整理します。
理由①インタビュー記事と他人の離婚記事の混在
三國清三さんはフランス料理界を代表する著名人であるため、さまざまなメディアに取り上げられる機会が非常に多いです。
ウェブメディアでは「関連記事」として自動的に他の記事がリンクされますが、その中に離婚した有名人の記事が含まれることがあります。
たとえば「三國清三シェフの最新インタビュー」という記事の隣に「○○さん離婚の真相」という記事が表示されると、読者の目には「三國清三さんも離婚?」という印象が残りやすいのです。
これは三國清三さんに限った話ではなく、多くの有名人に起こりがちな「検索の混在」とも言える現象です。
実際に離婚したわけではないのに、こうした形で噂が広まってしまうのは、メディアのアルゴリズムが生み出す副産物と言えるでしょう。
特に三國清三さんの場合、人気シェフということで検索ボリュームが大きく、関連記事も大量に生成されるため、より混在が起きやすい状況にあります。
理由②妻・久美子がYouTubeや公の場に出ない
三國清三さんは料理動画を中心としたYouTubeチャンネルを開設しており、精力的に料理情報を発信し続けています。
そのチャンネルには娘の珠杏さんが出演することはありますが、妻・久美子さんが登場した形跡はほぼ見当たりません。
SNSや動画に妻の姿がないことで「もしかして別々に暮らしているのでは?」「離婚して連絡が取れないのでは?」という臆測が生まれ、バツイチ疑惑につながっていきました。
ただ、久美子さん自身がカメラに映ることを好まない性格であったり、プライバシーを大切にしている可能性も十分に考えられます。
料理人の妻として25年以上フロントに立ってきた久美子さんが、引退後のプライベートを静かに過ごしたいと考えることはごく自然なことです。
夫のSNSに出ないこと自体は、離婚の証拠では全くありませんね。
2つの理由が組み合わさって噂が増幅した
記事の混在とYouTubeへの未出演、この2つの要因が重なったことで、バツイチ疑惑はネット上で独り歩きしていったと考えられます。
しかし繰り返しになりますが、三國清三さんと久美子さんは現在も婚姻関係を続けており、バツイチという噂は事実ではありません。
噂の背景を知ることで、根拠のない情報に惑わされず、正確に理解できるかなと思います。
妻・三國久美子のプロフィールと生い立ち
下記の表は妻・三國久美子さんの基本情報をまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 三國久美子(みくに くみこ) |
| 生年月日 | 1961年頃(推定) |
| 2026年03月28日現在の年齢 | 約64歳 |
| 出身 | 非公表 |
| 家庭環境 | 医者の娘・裕福な家庭 |
| 職業 | 料理研究家・フードコンサルタント |
| 結婚 | 1985年、三國清三と結婚 |
| 経歴 | オテル・ドゥ・ミクニ マダム(1986〜2011年) |
医者の娘として裕福な環境に育った
久美子さんは医者の家庭に生まれ、三國清三さんとは対照的に裕福な環境で育った女性です。
三國清三さんが北海道増毛の漁村出身で非常に貧しい生い立ちを持つことを考えると、二人のバックグラウンドは全く異なります。
それでも三國清三さんは久美子さんを一目で気に入り、その立居振る舞いや育ちの良さを高く評価しました。
医者の家庭で培われた教養と品の良さが、三國清三さんの目に「レストランのマダムにふさわしい人物」として映ったのでしょう。
この対照的な二人の出会いと結婚は、まさにドラマのような展開と言えるかもしれませんね。
料理研究家・フードコンサルタントとして活躍
久美子さんは結婚後、単にシェフの妻として家を守るだけでなく、料理研究家としても積極的にキャリアを積んできました。
フードコンサルタントとして食品メーカーや飲食店へのアドバイスを行うほか、自身の料理教室を開くなど、食の世界での専門知識を活かして幅広く活躍しています。
三國清三さんのレストランのマダムとして長年フロントに立ちながら、自身のキャリアも着実に積み上げてきた久美子さんは、まさに自立した女性の姿です。
ヨーロッパ家庭料理の研究という専門分野
久美子さんはヨーロッパ家庭料理の研究にも力を入れており、オテル・ドゥ・ミクニのサービス部門とともに食の文化を国内に広める取り組みをしてきました。
三國清三さんがレストランでの料理の技術と革新を追い求める一方で、久美子さんは食を「家庭と文化」の側面からアプローチするという、補完し合う関係が築かれてきたのです。
シェフとマダム、それぞれが異なる強みを持って食の世界に貢献してきた三國夫妻の姿は、多くの料理人カップルの理想像と言えるでしょう。
三國清三と久美子の馴れ初めと結婚の経緯
三國清三さんと久美子さんの馴れ初めは、1985年のオテル・ドゥ・ミクニ開業と深く結びついています。
一目で「マダムにふさわしい」と判断した三國清三
三國清三さんは、久美子さんを初めて見た瞬間に「この人がレストランのマダムにふさわしい」と直感したと伝えられています。
詳しい出会いの場所や経緯は明らかになっていませんが、三國清三さんが7歳年下の久美子さんを一目見て気に入ったのは確かです。
三國清三さんは「身長が高く、立居振る舞いが堂々としている久美子さんをレストランのマダムにふさわしいと思った」と語っており、育ちの良さも気に入ったと言われています。
料理人として培った審美眼が、人物を見極める力にも発揮されたのかもしれませんね。
7歳の年齢差という組み合わせ
久美子さんは三國清三さんより7歳年下です。
北海道の貧しい漁村出身で、中学卒業後から料理人として叩き上げてきた三國清三さんと、医者の娘として裕福に育った久美子さん。
この対照的な二人が結ばれた背景には、三國清三さんの鋭い眼力と、久美子さんの凜とした人柄が引き合わせた縁があったのでしょう。
年齢差と出自の違いを超えた二人の結婚は、三國清三さんの直感と決断力を物語っています。
オテル・ドゥ・ミクニ開業と同じ年の電撃結婚
三國清三さんと久美子さんが結婚したのは1985年のことでした。
この1985年は、三國清三さんが東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業した年と重なります。
レストランの開業という人生の一大転機と、結婚という人生の節目が同じ年に重なったわけで、三國清三さんにとって1985年は運命の年だったと言えるでしょう。
三國清三さんは久美子さんをレストランのマダムとして迎え入れ、翌1986年からはオテル・ドゥ・ミクニでのサービストレーニングとヨーロッパ家庭料理の研究を久美子さんに委ねることになります。
プロポーズの決め手はレストランへの想い
三國清三さんが久美子さんに惹かれたのは、単なる容姿や育ちの良さだけではなかったと考えられます。
開業したばかりのレストランを支えるマダムとして、公私ともにパートナーになってほしいという強い想いが、三國清三さんをプロポーズに踏み切らせたのでしょう。
「オテル・ドゥ・ミクニ」は後に「日本一予約の取れないレストラン」と称されるまでに成長しましたが、その礎には久美子さんというマダムの存在があったことは間違いありません。
久美子がマダムとして支えた25年間の軌跡
ここでは、久美子さんがオテル・ドゥ・ミクニのマダムとして三國清三さんを支え続けた25年間の軌跡を振り返ります。
1986年から2011年までの25年間
久美子さんは結婚した翌年の1986年から、オテル・ドゥ・ミクニでサービストレーニングとヨーロッパ家庭料理の研究を担当しました。
この活動は2011年まで実に25年間にわたって続き、久美子さんはレストランの顔として欠かせない存在であり続けました。
三國清三さんがキッチンで料理の創造に集中できたのは、久美子さんがホール全体を完璧に取り仕切ってくれていたからこそと言えるでしょう。
フランス料理の一流レストランにおいて、マダムの存在はシェフと並ぶほど重要です。
食材の選定から始まり、接客の細部に至るまで、レストランの「格」を決めるのはマダムの振る舞いと言っても過言ではありません。
新館開設時の内装総合プロデュース
久美子さんはオテル・ドゥ・ミクニの新館開設時に、内装の総合プロデュースも手がけています。
内装デザインとは単なる見た目の問題ではなく、レストランの世界観やブランドイメージそのものを体現するものです。
フランス料理の高級レストランにふさわしい空間を生み出すために、久美子さんが持つ審美眼と文化的な素養が存分に発揮されたと言えるでしょう。
医者の家庭という裕福な環境で培われた感性が、レストランの内装という形で実を結んだのかもしれません。
2011年以降の活動と新たなステージ
2011年にオテル・ドゥ・ミクニのマダムとして第一線を退いた後も、久美子さんは料理研究家・フードコンサルタントとして活躍を続けています。
25年間という長い月日をマダムとして捧げてきた久美子さんが、次のステージでどのような活動を行っているのかは詳細には公表されていませんが、食の世界への情熱は今も続いているはずです。
三國清三さんが2022年にオテル・ドゥ・ミクニを閉店し、新たな夢に向かって歩み始めた今、久美子さんもそのパートナーとして新しいステージで三國清三さんを支えているのでしょう。
娘・三國珠杏(じゃん)の現在と同級生
下記の表は三國清三さんの娘・珠杏さんの基本情報をまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 三國珠杏(みくに じゃん) |
| 生年月日 | 1992〜1993年(推定) |
| 2026年03月28日現在の年齢 | 約33歳 |
| 学歴 | 成城学園(幼稚園〜高校)→ 慶応義塾大学→大学院→ウィーン大学院 |
| 職業 | ウィーン大学心理学研究員 |
| 特記事項 | 尾上右近と幼稚園から高校まで同級生 |
名前「珠杏(じゃん)」の由来
珠杏さんの名前の読み方は「じゅあん」ではなく「じゃん」という独特のものです。
この名前には深い意味が込められており、三國清三さんが敬愛してやまないフランス料理の巨匠「ジャン・トロワグロ(Jean Troisgros)」さんへのオマージュとして名付けられました。
「珠杏」と書いて「じゃん」と読ませるというユニークな命名センスは、三國清三さんのフランス料理への深い愛情と、師匠への敬意が込められた贈り物と言えるでしょう。
また「珠」には宝石のような輝きを、「杏」には可憐さを込めた意味合いも感じられます。
尾上右近との幼稚園から高校の縁
珠杏さんは、歌舞伎の名門・音羽屋出身の俳優・尾上右近さんと、幼稚園から成城学園高校まで、ずっと同級生だったというエピソードが注目を集めています。
成城学園は幼稚園から大学まで一貫した教育機関であり、芸能界や各界の著名人の子弟が多く通う名門校として知られています。
尾上右近さんといえば、六代目清元延寿太夫を祖父に、三代目尾上菊之助を父に持つ歌舞伎界の名門中の名門の出身。
そんな尾上右近さんとほぼ同期で学んだ珠杏さんは、幼少期から文化や芸術に造詣の深い環境に育ったことがうかがえます。
慶応大学からウィーン大学院へという華麗な学歴
成城学園高校を卒業した後、珠杏さんは慶應義塾大学に進学し、さらに大学院まで進みました。
2019年からはオーストリアのウィーン大学院にも在籍するという、国際的なアカデミックキャリアを歩んでいます。
日本の名門大学の大学院を経て、ヨーロッパの著名な大学院へと進んだ珠杏さんの学歴は、まさに国際的な視野を持った父・三國清三さんらしい子育ての成果とも言えるでしょう。
現在はウィーン大学の心理学研究員として活躍中
珠杏さんは現在、ウィーン大学で心理学の研究員として活躍しています。
料理の世界を生きる父・三國清三さんとは全く異なる分野を選びましたが、それは珠杏さんが自分の道を自分で切り開いている証とも言えます。
三國清三さんがYouTubeに珠杏さんを出演させる場面もあり、父娘の仲の良さがうかがえます。
ウィーンを拠点に心理学の研究を続ける珠杏さんの活躍は、今後もますます楽しみですね。
三國清三のバツイチ疑惑が生まれた背景と波乱の人生
- 三國清三のプロフィールと増毛での生い立ち
- 帝国ホテルからスイス大使館への驚きの経歴
- オテル・ドゥ・ミクニ37年の歴史と閉店の理由
- 70歳からの新レストラン開業という夢
- 2006年暴力事件と書類送検の詳細
- 三國清三の兄との絆と家族への深い愛情
三國清三のプロフィールと増毛での生い立ち
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下記の表は三國清三さんの基本プロフィールをまとめたものです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 三國清三(みくに きよみ) |
| 生年月日 | 1954年頃(推定) |
| 2026年03月28日現在の年齢 | 71歳 |
| 出身地 | 北海道増毛町 |
| 職業 | フランス料理シェフ・実業家 |
| 代表レストラン | オテル・ドゥ・ミクニ(1985〜2022年) |
| 婚姻状況 | 既婚(妻:三國久美子) |
| 子供 | 娘・三國珠杏(じゃん) |
| 兄弟 | 兄(三國建設現社長) |
増毛という北海道の漁村で生まれた
三國清三さんは北海道増毛町という小さな漁村の出身で、その生い立ちは非常に貧しいものでした。
増毛はかつてニシン漁で栄えた港町で、三國清三さんの幼少期には父親がニシン漁で一度大成功を収めたこともあったといいます。
しかし父親は他所から来た芝居人に騙され、成功して得た財産をすべて失ってしまいました。
自分の家も借金で取られ、それから三國家の貧乏が始まったといいます。
幼少期から極貧の生活を送った三國清三さんは、この逆境こそが後の人生に大きな力を与えてくれたと語っています。
父親の波乱万丈な人生
三國清三さんの父親は、ニシン漁で財を成したものの、芝居人に騙されて全財産を失うという波乱の人生を送りました。
自分の家と土地まで借金で取られ、一家は無一文になってしまったのです。
この「取られた家と土地」を兄と三國清三さんの二人で取り戻すことが、兄弟共通の夢になったと三國清三さんは語っています。
その夢は後に実現し、三國清三さんと兄は増毛で一番海に近い土地と家を両親にプレゼントすることができました。
父親はその後一年で他界しましたが、いつも海を見ていたといいます。
母親から受け継いだ「稲穂の教え」
三國清三さんの母親は、毎日ある言葉を三國清三さんに言い続けていたと言います。
「清三、長いものには巻かれなさいよ。稲を見なさい。青いうちはぴんと立っているけれど、実が付けば付くほど頭が垂れる。いいかい、そういう人間になるんだよ。偉くなればなるほど頭を垂れるんだよ」
この言葉は三國清三さんの人生観の根幹となっており、世界的な料理人となった今でも身に染みているといいます。
世界的に名を馳せた巨匠になってもなお謙虚さを忘れない三國清三さんの姿勢は、この母親の教えからきているのかもしれません。
中学卒業後に料理の道へ踏み出したきっかけ
三國清三さんは中学校を卒業すると、高校には進学せずに札幌の米屋で住みこみの丁稚奉公を始めます。
クラスで高校に進学しなかったのは三國清三さんを含めてわずか2人だったといいます。
その米屋の娘さんが作ったハンバーグを初めて食べた瞬間が、三國清三さんの人生を決定的に変えることになりました。
「こんな旨いものが世の中にあったのか」と衝撃を受けた三國清三さんは、料理の世界への扉を開いていくのです。
帝国ホテルからスイス大使館への驚きの経歴
三國清三さんの料理人としての経歴は、常識を覆すような驚きのエピソードに満ちています。
札幌グランドホテルへの直談判入社
三國清三さんは、条件的には採用されないはずの札幌グランドホテルに直談判で入社するという大胆な行動をとりました。
当時は高卒以上でなければ採用してもらえないという話でしたが、三國清三さんはテーブルマナーの研修帰りにレストランの厨房に隠れ、責任者に直接訴えかけるという奇策に出ます。
「働かせてください」と切々と訴えた結果、従業員用の飯炊きのパートという形で採用してもらえることになりました。
半年夢中で皿や鍋を洗い続けると、特例で正社員に昇格。
寮に帰らず厨房で朝までオムレツを作り、肉を焼く練習をし、休みの日は鶏肉工場で鶏を捌くという猛烈な修業を積んだ三國清三さんは、18歳になる頃にはレストランの料理で作れないものはなくなっていたといいます。
帝国ホテルでの2年間の皿洗い生活
「東京の帝国ホテルにはフランス料理の神様・村上信夫総料理長がいる」という言葉を聞き、紹介状を手に津軽海峡を渡った三國清三さんを待ち受けていたのは、またしても皿洗いでした。
当時はオイルショックで正社員の採用が停止しており、パート扱いの洗い場にしか空きがないとのことでした。
それでも「なんとかなる」と信じた三國清三さんは、2年間皿洗いを続けます。
しかし社員への道は一向に開かれず、20歳の誕生日に「今年いっぱい働いて増毛に帰ろう」と決意します。
そこで三國清三さんは「爪痕を残したい」という一念から、帝国ホテル内18店舗すべてのレストランの鍋をピカピカに磨き上げるという前代未聞の行動に出ます。
この姿が村上総料理長の目に留まり、わずか3ヵ月後に奇跡的な転機が訪れることになりました。
20歳でのスイス大使館料理長就任という奇跡
帝国ホテルの村上総料理長から「スイスに赴任する大使が専属の料理人を探している、君を推薦した」と言われた三國清三さん。
村上総料理長が三國清三さんを推薦した理由は「やる気があってよく気がつくこと、塩振りが巧みなこと、そして鍋洗いの要領とセンスがいいこと」だったといいます。
こうして三國清三さんは20歳にして、駐スイス日本大使館の料理長に就任するという異例の経歴を歩み始めます。
世界7つの三ツ星レストランでの修業
スイス大使館に勤めた3年8ヵ月間、三國清三さんは休日をすべて返上して「ジラルデ」の厨房で働き続けました。
スイス銀行の金庫を破るより予約が難しいと言われた伝説のレストラン「ジラルデ」では、最初は門前払いされましたが、夕方まで店の表に立ち続け、ジラルデさんに認められて厨房に入ることができました。
その後はフランスの三ツ星レストランを渡り歩き、「トロワグロ」「アラン・シャペル」など世界最高峰7つの三ツ星レストランで腕を磨くという、日本人には前例のないキャリアを歩みました。
28歳で帰国し、30歳で東京・四ツ谷にオテル・ドゥ・ミクニを開業するという怒涛の人生が、三國清三さんのバツイチ疑惑とは無縁の「圧倒的な実績」の背景にあります。
オテル・ドゥ・ミクニ37年の歴史と閉店の理由
ここでは、三國清三さんが37年間経営し続けた「オテル・ドゥ・ミクニ」の歴史と閉店の真相に迫ります。
1985年の開業と「日本一予約が埋まる」店への成長
三國清三さんは1985年、28歳で帰国してわずか2年後の30歳で東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業しました。
世界最高峰7つの三ツ星レストランで磨いた技術と、フランス料理への革新的なアプローチが評判を呼び、開業当初から政治家や芸能人など著名人が多く訪れる人気店となりました。
その後「日本一予約の取れないレストラン」と称されるまでに成長し、日本のフランス料理界をリードする存在として37年間君臨し続けました。
閉店発表翌日に殺到した700件の予約問い合わせ
「オテル・ドゥ・ミクニ」は2022年12月28日に閉店しました。
閉店を発表した翌日だけで700件を超える予約問い合わせが殺到したというエピソードは、このレストランがいかに愛されていたかを物語っています。
37年間で積み上げたブランドと信頼の大きさを、改めて実感させる出来事でした。
三國清三が語った閉店の真の理由
なぜこれほどの人気店を閉めたのか。
その理由を三國清三さんは自身の著書「三流シェフ」の中でこう記しています。
「料理人として心の底に温めていた夢を実現するために僕は閉店を決めたのだ」
また「あと3年で40年。少々きりの良くない数字になるのには理由がある」「その3年は夢に向かっての準備期間だ」とも綴っています。
37年という長い歳月に区切りをつけ、70歳という節目に向けて新たな夢に向かって歩み始めることが、閉店の本当の理由だったのです。
コロナ禍が背中を押した一大決断
三國清三さんは長年、自分一人で切り盛りするカウンターだけの小さなレストランという夢を心に温め続けていました。
しかし「現世では無理だから来世で」と半ば諦めていたといいます。
その考えが変わったのは、コロナ禍でやむなく2ヵ月間レストランを休業せざるを得なかった時のことでした。
「来世なんてあるかどうかわからないんだからやりたいことがあるなら、今、挑戦しないとね」という考えに至り、閉店という決断につながったのです。
70歳からの新レストラン開業という夢
三國清三さんが「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店させた理由の核心は、70歳からの新たな挑戦にあります。
カウンター8席・自分一人で切り盛りという夢
三國清三さんが長年温めてきた夢は、「カウンター8席のみの、自分一人で切り盛りするレストラン」を開くことでした。
大勢のスタッフと共に日本最高峰のフレンチレストランを37年間経営し続けた三國清三さんが、今度は真逆のスタイルへと向かう決断は、多くの人を驚かせました。
しかしこれは長年の夢であり、料理人として究極の形を目指す三國清三さんの純粋な想いから生まれた計画です。
シェフが1人でカウンター越しに料理を提供するスタイルは、料理人と食客の距離を最も縮めた究極の形とも言えるでしょう。
オテル・ドゥ・ミクニ跡地に開業予定
新しいレストランは、オテル・ドゥ・ミクニがあった跡地に開業するとされています。
37年間お客様と料理の歴史を積み重ねてきた場所で、新たな挑戦を始めるというのは、三國清三さんらしい思い入れのある決断です。
2024年秋、ちょうど70歳となる年に開業を目指していた新レストランは、料理界の関係者からも大きな注目を集めました。
カウンター8席という小さな空間で、三國清三さんが1人で料理を作り、1人でサービスをする。
これはある意味で、三國清三さんが料理人になった原点に立ち返るような形と言えるかもしれません。
大きなレストランを率いる経営者としてではなく、1人の料理人として食客と向き合うことで、三國清三さんが目指す料理の本質をより深く追求できるのでしょう。
「燃え尽きるその日まで料理人でありたい」という覚悟
三國清三さんは「燃え尽きたと思えるその日まで、僕は料理人であり続けたい」と語っています。
この言葉には、70歳を過ぎてもなお衰えない料理への情熱と、人生の最後まで現役でいたいという強い意志が込められています。
15歳で料理の道に入り、世界を駆け巡ってきた三國清三さんの第二章に、多くの食通たちが期待を寄せています。
休みを取ったことがないと言う三國清三さんは、子供の食育活動も店の休日に20年続けてきたほどのエネルギーの持ち主です。
「楽しいからやっている」という三國清三さんの言葉が、その生き方のすべてを物語っているように思います。
バツイチ疑惑どころか、三國清三さんの人生はますますこれからが熱いステージに入っていくのかなと思います。
2006年暴力事件と書類送検の詳細
三國清三さんの人生には、バツイチ疑惑と同様に、誤解を生みやすい出来事が一つあります。それが2006年に起きた暴力事件です。
事件の経緯と内容
三國清三さんは2006年、オテル・ドゥ・ミクニの社員男性に対して電話の受話器を投げつけ、さらに顔を殴るという暴力事件を起こしました。
理由は「仕事が遅いことに腹を立てた」とのことで、完璧主義で知られる三國清三さんの厳しさが表れた出来事でした。
この事件は三國清三さんの料理に対する厳格さと、スタッフへの強い要求水準がもたらした悲劇と言えるかもしれません。
書類送検と法的な処理
殴られて軽傷を負った社員は、その日のうちに警視庁四谷署に被害届を提出しました。
三國清三さんは傷害容疑で書類送検されており、これは三國清三さんのキャリアに一時的な影を落とした出来事でした。
書類送検とは逮捕と異なり、刑事事件として検察官に送致する手続きのことを指します。
この事件は当時のメディアでも大きく報道されましたが、その後三國清三さんはオテル・ドゥ・ミクニの経営を継続し、日本のフランス料理界をリードし続けました。
事件と離婚・閉店との関係
この暴力事件はオテル・ドゥ・ミクニの閉店とは全く関係がありません。
また、この事件が離婚につながったという事実もなく、三國清三さんと久美子さんの夫婦関係には影響を与えませんでした。
一部ではこの事件がバツイチ疑惑につながっているとも思われがちですが、実際には全く別の話です。
三國清三さんは現在も妻・久美子さんと婚姻関係を続けており、2006年の事件は過去のものとして料理人としての歩みを続けています。
事件後も三國清三さんはオテル・ドゥ・ミクニをさらに発展させ、2022年の閉店まで日本のフレンチ料理界を牽引し続けました。
長年三國清三さんとともに歩んできたスタッフたちも「妥協しないし、諦めない。強引にでも成功に導く」「とにかく止まらない人で、走りながら考えている」と証言しており、事件後も三國清三さんの料理への姿勢は変わらなかったことがうかがえます。
人は時に過ちを犯すこともありますが、それをどう乗り越えるかが人生を決めるのかなと思います。三國清三さんの後の活躍がそれを証明していると言えるでしょう。
三國清三の兄との絆と家族への深い愛情
三國清三さんの人間性を語るうえで欠かせないのが、兄との強い絆と、家族への深い愛情です。
兄・三國建設現社長との精神的な支え
三國清三さんには兄が一人おり、現在は三國建設の社長を務めています。
帝国ホテルで皿洗いをしながら苦しい日々を送っていた三國清三さんが、やりきれない気持ちになるたびに向かったのが、当時札幌にいた兄の部屋でした。
兄は「俺は遊びに行く、おまえ泊まっていけ」と、いつも部屋を空けて弟のために居場所を作ってくれたといいます。
「兄の優しさを感じた。今思うと兄も辛かったのだと思う」と三國清三さんは述懐しており、言葉ではなく行動で支えてくれた兄への感謝が伝わってきます。
二人で果たした夢:両親への家のプレゼント
兄が「清三は増毛に土地を買え。俺は家を建てる」と言ったのが兄弟共通の夢の始まりでした。
かつて父親が騙されて失った増毛の家と土地を取り戻すことが、三國清三さんと兄の共通の目標になっていたのです。
この夢は後に実現し、兄弟二人は増毛で一番海に近い土地と家を購入して両親にプレゼントすることができました。
貧しかった父と母への恩返しを、兄弟で力を合わせて果たしたというエピソードは、三國清三さんの家族への深い愛情を示しています。
父親の最期と海への想い
両親に家をプレゼントしてから1年後、父親は他界しました。
その最後の一年間、父親は贈られた家からいつも海を眺めていたといいます。
三國清三さんは「何を見ていたのか聞きたかった」と語っており、父親と向き合えなかった後悔が滲みます。
ニシン漁で栄えた増毛の海は、財産を失った父親にとってどのような意味を持っていたのでしょうか。
そのことを聞けなかった三國清三さんの胸には、今も父親への想いが残っているのかもしれません。
母親の教えと今も元気な暮らし
増毛の家にはその後、母親が一人で暮らしています。
兄が買ってあげたカラオケを使って、毎晩近所のじいさんやばあさんを集めて歌っているという母親のエピソードは、何とも微笑ましいものがあります。
「そのせいだろうか、いつも元気である」と三國清三さんが語る母親の姿は、長男の兄に家族を守らせながら、自分は世界を舞台に活躍した三國清三さんの原点とも言えます。
「稲を見なさい、実が付けば付くほど頭が垂れる」という母親の言葉を今も身に染みて覚えている三國清三さん。その言葉の重みが、世界的な巨匠となった今でも謙虚さを失わない三國清三さんの人柄を作り上げているのでしょう。
三國清三のバツイチ疑惑と妻・久美子・娘・珠杏の総まとめ
- 三國清三さんは現在もバツイチではなく、妻・久美子さんとの婚姻関係を続けている
- バツイチ疑惑の原因はインタビュー記事への他人の離婚記事のリンクとYouTube未出演
- 妻・三國久美子さんは医者の娘で、料理研究家・フードコンサルタントとして活躍
- 二人は1985年に結婚し、オテル・ドゥ・ミクニ開業と同じ年に夫婦となった
- 久美子さんは1986年から2011年までの25年間、オテル・ドゥ・ミクニのマダムを務めた
- 久美子さんは新館開設時に内装の総合プロデュースも手がけた実力者
- 娘・三國珠杏(じゃん)さんは1992〜1993年生まれで、名前はジャン・トロワグロへの敬意に由来
- 尾上右近と幼稚園から成城学園高校まで同級生という豪華な縁を持つ
- 珠杏さんは慶應義塾大学→大学院→ウィーン大学院と歩み、現在は心理学研究員
- 三國清三さんは北海道増毛出身で、中学卒業後に料理の道に入った叩き上げの料理人
- 20歳でスイス大使館料理長に就任し、世界7つの三ツ星レストランで修業
- オテル・ドゥ・ミクニは1985年開業〜2022年閉店の37年間、日本のフレンチを牽引
- 2006年の暴力事件で書類送検されたが、閉店・離婚とは無関係
- 閉店の真の理由は70歳からの新たな夢(カウンター8席・1人で切り盛り)への挑戦
- 兄と二人で両親に増毛の家と土地をプレゼントした家族愛の持ち主
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